私の昭和史
野口義隆   

 
1.のどかな田舎

  四国の高松平野のほぼ中央にある仏生山 という町の、四方を田圃に囲まれた小さな農家で、家族は両親と自分の三人暮らし・・・そこが私の記憶の原点である。
 わが家からの眺めは、南に遥か阿讃の連峰を背景に、すぐ近くには法然寺というお寺のある「雄山」と氏神様をお祀りしてある「雌山」があり、遠くには大小の山が点在していた。北の方角には左手の紫雲山と右の屋島に狭まれて、その頃土地の人が「マチ」と呼んでいた高松の市街地がある。よく晴れた日には瀬戸内海の女木島が、そのマチのある辺りの向こうに見えた。
 もともと仏生山という地名は、江戸時代に高松藩祖松平頼重公が菩提寺として建立した「仏生山 来迎院 法然寺」の山号に由来する門前町であった。その中心は、いわゆる「お成り道」で、昔はお殿様が墓参のために「御成」になる時にはみんな道路に出て、土下座してお迎えしたという。松平頼重公は「御三家」の一つの水戸藩の初代藩徳川頼房の長男で、水戸黄門こと徳川光圀の実兄にあたる人である。そのため、高松は小藩ではあったが、譜代大名として格式が高かったようだ。小学校時代、当時の貴族院議長松平頼寿公(元第十四代藩主)が墓参のためお通りになる時には、学校行事として全校生徒が整列して、最敬礼でうやうやしく送迎したものだ。
 私が物心ついた頃の仏生山は、江戸時代から明治・大正にかけておよそ四百年続いた繁栄を、わずかに残る白壁が過ぎた年月の重さを見せてくれるだけの、ひなびて長閑な雰囲気であった。お成り道には時折お殿様ならぬ、荷車を引いた牛や馬が饅頭のような落とし物をしながら通っていた。
 その頃の子供の遊びといえば、かくれんぼ、凧上げ、コマまわし、なわとび、魚取りなどアウトドアばかりであった。どこの家庭にもテレビどころかラジオさえなかった時代である。泥んこにまみれて遊び疲れた後は、母の暖かい膝枕で眠った。
 もともと私はこの家に生まれたのではなかった。10キロ以上も離れた木田郡平井町の泉家に生まれたが、生母は私を産み落としてすぐ他界してしまった。家族会議の結果まだ盛年であった実父が後妻を娶り、幼児である私を養子に出すことになった。こうして野口家に貰われてきたのが昭和6年、私3才の時である。そのことは小学校の3年生になった頃はじめて知ったが、養父母の暖かい愛情に包まれて、1人息子として大事に育てられている自分の宿命に少しも不満を感じてはいなかった。
 父も母も賃仕事に出掛ける毎日で、家にいるのは夜だけであった。だから農作業は大抵仕事から帰った夕方からはじめて、月明かりを頼りに夜遅くまでかかっていた。手元が暗くなるとアセチレンガスに灯を点した。幼い私は綿入れの半纏にくるまり、畦道に置かれた藁の中で夜寒に震えながら仕事の終わるのを待っていた。満天に広がる星雲を眺めながら、大きくなったら両親に楽をさせてあげたいと思った。
 遠く離れた田圃の横には、昭和4年に開通した「塩江温泉鉄道」の軌道があって、そこを「ガソリンカー」が走っていた。ガソリンを燃料とするマッチ箱のような小さな汽車で、仏生山の駅を起点として、塩江温泉への入湯客を運ぶための交通手段であった。農作業をしている傍らを、一両だけの貧相な汽車が「モウカラン モウカラン」という大きな音を立てながら通り過ぎた。普段から乗客は少なかったが、第2次世界大戦の直前の昭和16年5月にこの鉄道は消えた。今、この軌道の後は「ガソリン道」と呼ばれる道路に変身して地元の人々の生活に役立っている。



    
2.サイタ サイタ サクラガ サイタ

 昭和10年、7才になって小学校に入ったとき、はじめて貰った国語の教科書の最初のページは、ピンク色の満開の桜を背景にした「サイタ サイタ サクラガ サイタ」であった。野山が緑に萌えはじめる春4月、美しく華やかに咲きいさぎよく散るサクラは、日本人の魂の象徴であるとして国花と定められていた。 インクの匂う新鮮な教科書の冒頭を飾るこの言葉は、希望に燃えて新しい人生をスタートしようとする昭和の子どもの心そのものであった。
  「敷島の 大和こごろを 人問わば
          朝日ににおう やまざくら花」
中学生になっても、本居宣長のこの詩を口ずさむときには、いつもあの教科書を初めて開いたときの新鮮な感動を連想した。
 次のページは「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」とあって、銃を担ったおもちゃの兵隊が行進している画が添えられていた。日清・日露の戦争や第一次世界大戦の余韻は未だ残っていたし、満州事変が終わった直後なので、周囲には絶えず戦争の気配がみなぎっていた。だから当時の少年にとって、戦争とは何の変哲もない極めて日常的なものであった。
 登校と下校のときには必ず最初に天皇陛下の写真が安置されている奉安殿の前に立ち、上体を直角に屈めて最敬礼で陛下にご挨拶をするよう指導された。「天皇陛下は日本の国の唯一尊いお方であり、神代の昔からこの国を治めてきた歴史もある。天皇のお陰で存在を許されている我々民草は、何時でも天皇陛下のために生命を捧げる覚悟をせよ」という教育が行われていた。
 小学1年生が間もなく終わろうとしていた昭和11年2月のある寒い日、担任の教師から「昨夜、東京では大臣などの大勢の偉い人達が、陸軍の決起部隊によって殺された」と教えてくれた。極度に窮乏している農村出身の青年将校達が中心になって、政府のやり方に憤慨して反乱を起こしたとのことであった。世に云う2.26事件である。それが日本の歴史にどういう意味を持つ事件なのか理解できなかったが、ただならぬ雰囲気を感じた。
 実際その頃の農村の疲弊と百姓の生活は、ひどいものであった。小学校2年生の時であっただろうか、父が高松の地主さんの家へ年貢米を納めに行くのに同行したことがある。年貢はその年の収穫量の半分以上を地主に献上するのであるが、屑米は家で食べて年貢米には良質のものを使わなければならなかった。米俵を積んだ荷車を引く父の背中を見ながら、車を押して遠いごろごろ道を歩いた。
地主の家では俵を執事に引き渡した後で、植え込みの見える大きな広間に通され、酒肴のもてなしがあった。土間には高い天井に届くほどの米俵が積み上げられていた。蟻のように働く百姓と、贅沢な暮らしのできる地主との立場の落差に、子ども心に割り切れないものが残った。大正時代に各地で起こった百姓一揆や農民運動も、官憲の弾圧に押されてか、成果があったとは思えなかった。



3.きなくさい風雲

 2.26事件の年、日本はロンドン軍縮会議を脱退して軍備拡張が本格化した。昭和12年には日独伊防共協定が調印され、その夏から支那事変が始まって、町や村からたくさんの青年たちが歓呼の声に送られて、次々に軍隊に召集されはじめた。昭和14年9月、ヒットラーに統率されたナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻して第2次世界大戦がはじまり、破竹の勢いのドイツ軍はすぐにもヨーロッパ全土を制圧するかに見えた。 昭和15年10月の「紀元2600年奉祝国民大会」は、皇居前を中心にして全国に展開され、「皇威宣揚」「天壌無窮」の思想が鼓吹された。ひなびて貧しいながらも平和であった農村にも、国際的緊張の余波がひたひたと打ち寄せていた。
 教師は機会あるごとに忠君愛国が道徳の基本であると説き、戦争美談を話してくれた。近所に住む長老が、得意げに話す日露戦争の従軍の追憶なども興味深く聞いた。
 3年生のときだったか、恒例の全校児童の学芸会で「勇敢なる水兵」という劇が披露された。これは明治27年の黄海海戦の時、戦艦松島艦上で負傷した一人の水兵が、艦長から怪我の様子を聞かれたが、自分の怪我のことよりも敵の主力艦「定遠」撃沈の様子が気がかりで、「まだ沈まずや定遠は?」と訊ねたという「美談」を劇化したものである。
「煙も見えず 雲もなく 風も起こらず 波立たず 鏡の如き黄海は・・・・・」の合唱をバックに、女の子のセーラ服を借りて「勇敢なる水兵」に扮した私が劇の主役であった。その頃は佐久間艇長や広瀬中佐・爆弾三勇士の話などが、あるべき人間像の教材として広く流布されていた。「大きくなったら軍人になりたい」という淡い夢が、芽生えはじめた。
 昭和16年、県立の高松中学校に入学した。その頃の農村では、小学校を卒業して中等学校へ進学するものは、比較的恵まれた家庭の子女で、義務教育の尋常科を終えても高等科へも進まず、丁稚奉公に出されるケースも珍しいことではなかった。貧しい父母が私の中学進学を許してくれたのは、生家に対しての見栄もあったと思う。幼い頃に生母と死別したため養子として出された私だが、生家の兄や姉はみな中等教育またはそれ以上の教育を受けていたからだ。
 最も多情多感な年頃を、勉強に遊びにスポーツに・・・と言いたいところであるが、本当の中学生らしい生活ができたのは3年生ぐらいまでであった。それも学業の時間がしばしば勤労作業に振り替えられたり、軍事教練に当てられる時間が多くなった。またスポーツとしてではなく「武道」としての剣道と柔道は正課であり、課外の部活動も柔剣道の他には弓道・射撃・ラッパ・滑空(グライダー)等軍事色の強いものばかりが重視されていた。
 最も重要な科目であるとされた軍事教練には現役の将校軍人が配属されて指導に当たっていた。
陸軍士官学校の教官を経て陸軍大学に進んでいる生家の長兄は私の誇りであり、すぐ上の兄は豊橋の予備士官学校を出て、東京の中野学校とかいうところで、怪しげな訓練を受けていることは知っていた。軍隊は当時の私にとって最も身近な社会であった。
中学校を出ても更に都会の高校や大学へ進むことなど、普通の庶民にとっては高嶺の花であったが、衣食住の全てを国が負担してくれるし、その上幾ばくかの手当さえ支給される軍の学校は、貧農の子弟が日本の一流社会へ出るために開かれた唯一の登竜門であった。いくら働いても楽にならない農民の生活に較べたら、端正な服装に象徴されるように、軍隊にはきらびやかな夢がいっぱい散りばめられているようにさえ見えていた。


   
4.太平洋戦争

 昭和16年の12月8日朝、いつもの通り学校へ行くと、顔を強張らせた校長が朝礼台の上に直立して、帝国陸海軍が米英軍と戦争を始めたというラジオ放送があったことを告げた。
「天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祖ヲ践(ふ)メル大日本帝国天皇ハ昭(あきらか)ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス 朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス・・・・」にはじまる宣戦布告の詔勅を、神の啓示として聞いた。かねてから日本と米英関係の雲行きが怪しくなっていたことは知っていたが、これからはいよいよ強国を相手に、祖国が国運を賭けた大勝負をする時が来たことに、身の引き締まるような緊張を覚えた。
 その後矢継ぎ早に発表された報道は、ハワイの真珠湾攻撃やマレー沖海戦を皮切りに連戦連勝、開戦の時に感じた不安は一気に吹き飛んで、「海軍は強いなあ! 皇軍は無敵だ!」と、誰もが躍り上がって快哉を叫んだ。政府は毎月8日の開戦記念の日を「大詔奉戴日」として、戦意昂揚を鼓舞した。
 明けて17年1月、マニラ占領・ビルマに進入。2月にはイギリスの東洋における前線基地シンガポール要塞が陥落して、大提灯行列で戦勝を祝った。圧倒的に優勢な日本軍の山下奉文大将が、敵将パーシバルに対し「イエスかノーか?」と恫喝して降伏を迫る場面は、ニュース映画で何度も見た。
その後もラングーン、ミンダナオ、セレベスボルネオ、スマトラ、ジャワ、ニューギニヤ・・・・はじめて聞く地名を、地図で探すのに夢中になっている間にも、日本軍は赤道を越えて南へ南へと進んでいた。
「立つや忽ち撃滅の、勝ちどきあがる太平洋・・・」とか、「見よ檣頭(しょうとう)に思い出の Z旗高く翻る・・・・」という明るくて勇ましい歌を、私はこの時代に生まれあえた喜びと誇りをもって絶叫した。
海軍のことを書いてある本は片っ端から読み、「海軍」「ハワイ・マレー沖海戦」などの映画を見ては、痺れるような陶酔を感じた。
 まさに戦争一色に塗りつぶされたこの時期、その後に展開される悲劇を予想した人達が、果たして何人いたであろうか?国民の誰もが国家の聡明と善意を信じ、政府の云うこの「聖戦」完遂に身命を賭けて奉公する心情であるかのようであった。クラスメートの中からも、1〜2年生で早くも陸軍幼年学校へ進むものがいたし、3年生ともなると、周囲にいた大勢の者が海軍の飛行予科練習生(予科練)や陸軍の少年兵として巣立ちはじめた。私の軍人志望は次第に膨らみ、確かなものになっていった。 両親としては賛成ではないが、さりとて普通の上級学校に進学させる資力もないので、黙って見守るほかないようであった。 



 
5.傾く戦局

 太平洋における日本軍の連戦戦勝は長くは続かなかった。すなわち、昭和17年6月のミッドウエー海戦での惨敗と、ガダルカナルの激戦をやまとして、それまでは浮き足立ったように後退をしていた連合軍が猛烈な反攻に転じていたのだ。中学校の軍国主義教育は一段と強化され、軍事教練が何にも増して重要科目になった。授業を休んで勤労奉仕に駆り出されることも多くなった。
 昭和18年4月には山本連合艦隊司令長官の戦死が発表され、19年2月絶対国防圏の要としていたトラック基地が、敵機動部隊の空襲により壊滅した。7月にはサイパン島が陥落し、続いてグァム・テニヤンの基地が奪われて、日本本土は直接B29重爆撃機と艦載機の前に裸にされた。有名無名の戦死者の数が止めどなく増えはじめた頃には、次第に身の回りの物資はなくなり、町のあちこちには「一億一心 火の玉だ」とか「欲しがりません 勝つまでは」というポスターが目につくようになった。農村では僅かな米の供出代金さえ、戦時国債で支払われていた。
 「日本は神国だから国難の時には必ず神風が吹く」という俗説が、もっともらしく囁かれたのは、溺れるものが藁にでも縋りたい心理であったが、まだ多くの国民は皇軍の起死回生の実力を期待していた。
 本土決戦に備えての陸軍の高松飛行場建設がはじまると、学業を休んで作業に参加した。広大な農地を滑走路に変える大土木工事である。ダンプカーの姿も少しは見かけたが、私たちが使う道具と言えば、つるはし、スコップ、モッコ程度であった。砂ぼこりを浴びながらスコップで土をすくって、藁で作ったモッコに入れ、二人で棒を担いで運ぶのである。私は敵も同じやり方をしているものとばかり思っていたので、戦争とは交戦国の「がまんくらべ」だという偉い人の言う論理に納得していた。
 戦後になってアメリカではブルトーザを使って、日本軍の何倍もの能率的な仕事をしていたことを知って愕然とした。日米の技術力と物量の差がこれほど大きかったことを、国の首脳部が知らなかったとは、近代装備の敵に竹槍で立ち向かおうとしたのと同様、信じられないほどのナンセンスである。
 昭和19年7月、サイパン島守備隊の玉砕した直後、4年生になっていた私は海軍兵学校の入学試験を受けた。5年制の中学校も在学年限短縮措置によって、既に4年で繰り上げ卒業させられることが決定されていた。もし高校や専門学校に進学したとしても、勤労動員に駆り出されて勉強など出来ないばかりか、何れ軍隊に入ることを余儀なくされるという状況下であっただけに、背水の陣で受験に臨んだ。このときの志願者は十余万人という、前代未聞の膨大な数であったことは戦後明らかにされた。
 その直後、陸軍予科士官学校の体験入学を兼ねた身体検査のため上京した機会に、当時陸軍参謀本部に勤務していて、杉並区堀之内に住んでいた兄の家に逗留して、つかの間の東京見物をした。この時に見た東京市街は、やたらに広い殺伐とした雰囲気だけが印象に残っている。東京ステイの最大の目的は靖国神社の参拝であったが、明治以来の戦争で戦死した英霊の前にぬかづきながら、私もいつかはここに来ることになるのかなあ・・・と思った。
 東京は既に17年4月の空母ホーネットを発進したB25の空襲を経験していたが、被害は少なかったので、その時の敵の指揮官の名に因んでドウ・リットルなどと強がりを言っていた。しかし帝都の夜空に交錯する不気味な探照灯の光芒は、これから始まるであろう本格的な本土空襲を予見させるものであった。
  9月からは完全に学業を放棄して、対岸の岡山県の宇野にある三井造船所へ動員されることになった。中学の教育課程は4年生の教科書の半分程度にしか進んでいなかった。



6.勤労動員

 造船所の仕事は朝8時から夕方5時までだが、工場の近くには宿舎がないため、鉄道連絡船を利用して通勤するのである。片道2時間もかかるから、朝は早く夜は遅い。はじめ高松市内の廃業している旅館や大きな寺の本堂で雑魚寝をしていたが、後には栗林公園の近くの木造の市立美術館に移った。美術館はもちろん閉鎖されていて、そこの2階のフロァーに畳を敷いただけの大広間は、ただ寝るだけの場所であった。
 まだ眠っている暗い街を、日の丸の鉢巻きを締めた勇ましい姿で、整然と隊伍を組み「花もつぼみの若桜 五尺のいのちひっ提げて 国の大事に殉ずるは 我ら学徒の面目ぞ ・・」という学徒出陣の歌を高唱しながら足を踏みならして行進するのが、ペンを捨てて工員並に働かされる身の、辛うじてのプライドであった。
 造船所では潜水艦や海防鑑の艤装を行う現場に配属された。ドックには修理のため入渠していた巨大な輸送船や海防艦があったが、その何れもが敵弾を受けて、見るも無惨に塗装は剥げ、甲板はむくれ上がり、中には船腹に魚雷の貫通した大きな穴が開いている輸送船もあった。痛ましい姿ながらこうして内地に辿り着いた船はまだいいとしても、幾ばくの船が遠く海中の藻屑と消えたことか!鉄骨を組み立てて作った艤装工場の高い天井の梁には、自走式のクレーンが唸りを挙げて重量物を運んでいた。バリバリと鼓膜を直撃する喧ましい鋲を打つコンプレッサーの音や、ピカッピカピカと眼を射る電気溶接の光が交錯している殺風景な工場風景である。壁の隙間から斜めに射し込む太陽の光に、眼には見えない粉塵が照らし出されて、円筒形の白い棒が幾筋も見えた。
 動員が始まって間もなく陸士と海兵の採用予定の通知を殆ど同時に受け取った。兄と同じ陸軍に進むべきか、海軍の道を選ぶべきか迷ったが、陸士の入校はその年の10月なのに対して、海兵は半年遅い翌20年4月なので、結局入校の遅い海軍を選択することにした。
 勤労動員で学力が低下することを懸念した兵学校は、予科を新設して中学3年生から採用する道を開いていたが、私達には入学までに習得して来るようにと数学や物理の学習書が送られてきた。私は読書のままならない集団生活から離れて、市内の伯母の家に下宿させてもらうことにした。中学の同級であった従兄弟は既に予科練に入っていたし、海軍の飛行隊にいた彼の兄は戦死していたので、彼らの使っていた部屋を与えられた。深刻な食糧不足に喘ぎながら、世話をしてくれるこの家のためにも、しっかり勉強して強い軍人になり、必ず仇を討つぞ!・・・・と、主を失った古机に向かうのだが、くたくたに疲れて帰った身体はすぐ睡魔の猛襲を受ける。勉強は一向に進まないどころか、今までに学習した貴重な乏しい知識さえも、幻覚のように風化しはじめているのに気付いて焦った。



7.鉄の棺桶

 10月米軍がレイテ島に上陸を開始し、神風特別攻撃隊が飛び立った事は、日曜日に家に帰って聞いていたラジオの臨時ニュースで知った。特攻隊はそれ以後連日のように出撃していたが、それらの隊長がいずれも兵学校出身の若い青年将校であることに無関心ではおれなかった。
 その秋の暮れのこと、潜水艦工場の一部がにわかに異様な雰囲気になり、見慣れぬ男たちが忙しく行き来し始めたと見るや、忽ち周りには堅固な板塀が張り巡らされた。引率の教師は学徒全員を集めて、緊張のあまり少し蒼ざめた顔で、「これからあそこでは秘密の新兵器がつくられるが、諸君はそれを見てはならない。そしてこのことに関するどんな些細なことでも絶対に口外してはならない。家族にも話してはいけない。もし誰かに話したら諸君が厳しい制裁を受けるだけでなく、家族の者にも禍いが及ぶことになる。」と恫喝した。しかし、暫くすると工員同士では半ば公然と「06(マルロク)」という言葉が囁かれていた。ある日私は海岸に引き出されたその「マルロク」の正体を見た。それは中央部がドラム缶よりも少し太いが、前後が次第に細くなっている葉巻たばこのような恰好をした、長さ10メートルぐらいの鉄の筒であった。
 やがて私はそれが頭部に火薬を装填して、人が操縦して敵艦に体当たりする「人間魚雷」であることを知って慄然とした。 昼夜兼行で行われる作業の重点は、いつしかマルロクに移っていた。「必死」を前提のその新特攻兵器も、「必中」は保証されていないらしく、戦局は益々傾いている様子であった。私は自分の棺桶を見るような複雑な心境で、その黒い魔物のような物体を見つめていた。
 早く戦争が終わって、特攻機やマルロクに乗る時間に間に合わなければいいが・・・という密かな期待もあったが、早い時機に勝つ見込みがない限り、私がそれに乗らなければならないのは、ほぼ確実だと思わざるを得なかった。
 昭和20年も3月にはいると遂に硫黄島が奪われ、沖縄では凄惨な攻防戦が繰り返され、東京をはじめ大都市が次々に空襲されはじめた。「本土決戦」「一億玉砕」が叫ばれ、防空演習や小学児童の疎開、密集家屋の取り壊しなど殺伐とした状況の中で入校の日は近づいた。


8.江田島へ.

 昭和20年4月の始め、広島県の江田島にある海軍兵学校の校門を入ると、精一杯に花をつけた桜の並木が大空を華やかな薄紅色で飾っていた。静かな江田湾の海が、この瞬間にも死闘を繰り返している戦場と繋がっているとは信じられないほど、平和なたたずまいであった。だが、石垣を築いた海岸一帯には沢山の吊艇鈎(ダビット)が整然と並び、練兵場の一角には戦艦「陸奥」の大きな砲塔が据えられてあるなど、この学校がただのものでないことを物語っていた。
 今まで身に着けていたものは総て脱ぎ捨て、予め用意されていた濃紺の軍服に着替え、憧れの短剣を吊って77期生徒としての入校式に臨んだのは4月10日であった。
 所属する109分隊の自習室にはいると、真中正面に聖訓5カ条「1.軍人は忠節を尽くすを本分とすべし1.軍人は礼儀を正しくすべし 1.軍人は武勇を尚ぶべし 1.軍人は信義を重んずべし 1.軍人は質素を旨とすべし」の額が掲げてあり、その下にはやや小さく「五省 1.至誠に悖るなかりしか 1.言行に恥づるなかりしか 1.気力に欠くるなかりしか 1.努力に憾みなかりしか 1.不精に亘るなかりしか」の掲額があった。また前方左隅にある桐の箱には「分隊名簿」という冊子があって、そこには嘗てこの分隊に所属した先輩達が、卒業の時に残した毛筆の自署があった。その中には娑婆にいた頃から「軍神」として崇められている著名な人の名も記されていた。これらの厳粛な雰囲気の中で、「後に続くものを信じて先立った先輩に続くのは、私たちの義務だ!」と固く心に誓った。
 兵学校の生活は入校式直後に行われる分隊毎の姓名申告での、最上級の1号生徒の怒声からはじまる。胸一杯に息を吸い込んで、声を振り絞っても「聞こえ〜ん」「やり直せ!」「おくに訛りもいい加減にしろ!」「ニヤニヤするな!などと口々の罵声が浴びせられる。荒々しい恫喝にど肝を抜かれた私達3号(最下級生徒)にとって、1号生徒は鬼より怖い階級的絶対者になった。
 海軍の初級士官を養成するこの学校には、イギリス海軍を範としたジェントルマン精神をバックボーンとする自由で伸びやかな雰囲気が、まだどこかにただよってはいたが、翌日(いやその日)から展開された教育訓練は予想以上に厳しかった。例えば、何時敵襲があっても即応即戦できる体勢をとるための、就寝・起床動作である。
「よーい寝ろっ!」ストップウオッチを睨みながら1号が怒鳴ると、一斉に上衣を脱いで傍らのチェストの上に置き靴を草履に履きかえズボンを脱いで上衣の上に重ね・・・・・木綿の寝間着で4枚の毛布を広げて、その間にすべり込んで終わる。その間1分30秒。まさに一陣の突風が通過したような早さである。しかもチェストの上に置かれた衣類は、それ自体が包丁で切ったように直線直角でなければならないし、全員の衣類が縦横ともに定規で計ったように一直線上になければならない。
 起床は「よーい起きろっ!」の号令で始まる逆の動作であるが、一切の着衣をして寝具を畳んで、略帽をつかんで寝室を飛び出すまでがこれまた1分30秒。1号の怒声を頭上に浴びながら繰り返しての練習である。寝室を飛び出すと廊下はあっちこっちから走ってくる生徒で人の波だ。それは一団となって階段を駆け降り、洗面所へなだれ込む。上半身裸になって洗面歯磨き、冷水摩擦・・・・練兵場でも上半身裸で号令演習、続いて海軍体操・・・・・こうして始まる兵学校の生活は、息を抜く暇もないほどびっしり組まれた課業と隊務の連続であった。校内では食堂へ行くとき以外は、すべて駆け足で、階段はすべて2段飛びである。疲労困憊のあげくは学科の課業が始まっても、睡魔と戦うのが精一杯であった。
 軍隊では普通の社会を「娑婆」と呼んで、現世とは隔絶した別世界として意識していたが、ここは文字どおり自他ともに認める「天下の荒道場」であった。それでも朝な夕なに対岸の能美島を背景にして浮かぶ重巡洋艦「利根」の美しいまでに精悍な雄姿を眺めては、今日の課業や訓練を明日への夢へ繋いでいた。



9.紅蓮の炎

 学校当局の方針として生徒は戦局について一喜一憂することなく、ひたすら訓練に励むようにという配慮で、教官から戦局の話を聞くことは滅多になかったが、空襲によって課業が中断を余儀なくされる頻度が加速度的に多くなるのは、明らかに戦局が不利に傾いていることを物語っていた。
 陸戦訓練なども中学校で教えられた歩兵操典みたいな日露戦争の遺物は一顧もされず、土を掘って作った蛸壷の中に身を潜めていて、敵のM4戦車に見立てたボロ自動車に亀の甲地雷を張り付けたり、棒地雷を敷きこんだり、生還の可能性のない戦闘法ばかりであった
 規則正しい生活のリズムは次第に乱れ始め、学科の時間は防空壕作業に振り替えられることが多くなった。「武器がなくなれば四肢で戦い、四肢なお失えば歯を以て戦う」海軍精神を維持するために、兵学校の全施設を防空壕内に移す計画だと聞いた。軍艦も飛行機も失った日本が、果たして陸戦で本土決戦に勝つことが出来るのであろうか?もし仮に本土の陸戦で勝ち抜いたとしても、どのような手段で敵を「攻める」ことができるのだろうか?・・・・・という疑問は常に付き纏っていたが、国が「一億玉砕」の路線を突き進んでいる状況下では、どういう「死の機会」が与えられるかだけの問題だ、という諦観が支配していた。
 7月1日であったか、呉市が大空襲を受けた夜の印象は忘れられない。陽はとっぷり暮れて雲が低く垂れ込めた暗い夜、防空壕構築作業を終えての帰途、ふと見ると呉市の上空が地獄絵のような凄惨な赤色に染まり、紅蓮(ぐれん)の炎が鮮血の雲に映えて明滅していた。翌朝、米軍機が日本の防空陣の電探を幻惑させるために撒いた、幅3センチぐらいの細長い錫箔が練兵場や海岸のあちこちに散らかっていた。私はそのきらきら光る物体を手にして、豊富な敵の物量に驚嘆した。郷里の高松市が7月3日夜の大空襲で、かなりの被害があったことは相当後になって聞いたが、詳しいことは分からなかった。
 江田湾に停泊していた巡洋艦利根と大淀が敵襲を受けて、断末魔のように喘ぎながら撃沈されたのは、7月24日であった。その日も早朝からの防空壕作業をしていた。空襲警報のサイレンが鳴り終わる間もなく、能美島をかすめるような低空で、切り取ったような翼のグラマンが数機、その後ろにはゴマを撒いたような無数の機影が迫ってくるのを見た。急いで壕の中に逃げ込んだが、ドドーンという地鳴りと、バリバリバリという機銃の音に混じってブウ〜ンと唸るようなプロペラの音は、頭上での急降下と思われた。
 長い空襲がやんで壕の外に出て、濛々と黒煙に包まれている利根の姿を認めた。この空襲では飛渡瀬に身を隠していた大淀も、十数所に直撃弾を受けて誘爆の火花を散らしていたが、遂に横転してしまった。
 8月6日広島に新型爆弾(原爆)が投下された時も、兵学校の裏の山での防空壕作業中であった。一旦発令されていた警戒警報が解除された後に、突然その異変が起った。焼け付くような真夏の空に突然ピカッと煌めいた青い光の後で、傲然と立ち上るキノコ雲は凄絶の極致であった。
その直後に降った不気味な黒い雨は、日本の前途を暗示する不吉な予感であった。その3日後にソ連が参戦し、第2発目のピカドンが長崎市に投ぜられたことが伝えられた。
 広島や長崎での被爆の経験によれば、灼熱の爆風にさらされた皮膚はべろべろに爛れるひどい火傷を受けたので、できるだけ皮膚の露出を無くすようにと、白い木綿の風呂敷を略帽の下縁に縫いつけ、眼の部分だけには穴を空けた覆面を縫い上げた。また白手袋に靴下の上半分を切って縫いつけ、手首部を長くした。新型爆弾の被災範囲は半径数qにも及ぶので、従来なら警戒警報で済まされていた程度の敵機の来襲にも、真夏の太陽の下を覆面を被り手袋を履いて逃げまどう哀れな姿になった。



10.国敗れて山河あり

 いよいよ来るところまで来たと覚悟を決めていた8月15日、ラジオを通じて天皇陛下のご放送があったとき、雑音がひどくてよく聞きとれなかったが、独特のアクセントの端々から華々しい内容ではないことは察していた。間もなくその趣旨が無条件降伏であると知らされたときには、にわかには信じられなかった。しかしあの激しかった空襲や、他愛なく撃沈された利根と大淀の哀れな姿や、広島の上空に炸裂した奇怪な爆煙のこと等を回想して、日本の戦争にも降伏という選択肢があったことが漸く理解できた。
 それから数日後の早朝、四国方面へ復員する大勢の生徒達を乗せた海軍用船「第一まいづる」は、兵学校の表桟橋を離れて、伊予の三津浜に向かった。船が江田湾を出て音戸の瀬戸に到るまでの航路の両側には、大小の艦艇の残骸が点在していた。半ば海中に没して座礁しているもの、横転しているもの、大きく傾斜している空母の甲板で偽装のために植えた松の木が枯れかかっているもの、何れも艦上に人影は見当たらず、嘗ての帝国海軍の勇姿を偲ぶよすがもない、精魂尽き果てた姿であった。
 国鉄三津浜駅で長い間待って漸く乗った上り列車は、復員する陸軍の兵隊たちがいっぱいで、汗くさい男の臭いが充満していた。すでに階級章を取り外した軍服は汗と埃にまみれ、血走った眼をした彼らは敗残兵そのものであった。みんな黙りっこく、時おり呻き声のような吐息があちこちで漏れていた。通路に腰を屈めていた兵隊が、腰に下げていた竹の水筒で、うまそうに喉を鳴らせているのを虚ろに見ながら、日本の敗戦を実感として受け入れた。
 各駅に停車して何人かずつの兵隊を降ろしながら、汽車が高松駅に着いたのは、深夜の午前1時頃であった。一緒に帰っていたみんなと別れて一人になった私は、電車の駅を目指して歩きはじめた。兵庫町〜丸亀町〜南新町を経由して、瓦町までの約2キロの道のりである。戦前は華やかな商店街であったこの街道も一面の焼け野原で、辺りは鬼気迫る雰囲気であった。電灯など一つも点っていなかったが、幸い淡い月明かりがあった。虫の声はおろか物音は全く何もないので、私の靴音だけがヤケに高く響いた。少し怖かったが、厳しかった兵学校の訓練のことを思い出しながら、急ぎ足でひたすら歩いた。と、突如、目の前に動くものがある。ギョッとして立ち止まると向こうも止まる。人の背丈程の細長いものだ。何だろうと近づけば、相手は遠ざかる。それが水溜まりに映った焼け残りの電柱だとわかるまでには随分肝が冷えた。
 焼け爛れたままの電車の駅の床の上に腰を降ろして、漸くすべての束縛から解放された自分に一抹の不安と孤独を覚えながら、一番電車の来るまで少しまどろんだ。
 家では両親が顔をほころばせて、「よかった。よかった」と手放しで喜んでいたが、私は何と応えていいか分からなかった。江田島を去るときの「赤穂浪士の復仇精神を忘れまいぞ!」との同志の誓い(?)が私の耳の奥に残っていて、何時か何処かで同志が蜂起の狼煙を挙げれば、すぐ呼応して馳せ参ずる義務感みたいなものを背負っていたからだ。
 久しぶりで畳の上に敷かれた布団にくるまって寝るのは、ベットに馴れていた身には土間で寝ているような違和感があったがすぐ馴れた。初めのうちは何度か兵学校からの非常呼集が来た夢も見た。練兵場には大勢の生徒が集まっていて潮のように何処かへ移動しているのだが、私は何処に所属してどういう配置につけばいいのか、分からぬままオロオロうろたえている、という図式のものが多かった。が、次第にそんな夢も見なくなった。あの緊張した就寝起床動作とは反対に、脱いだ衣類は辺り構わず投げ飛ばし、畳の上にだらしなく寝そべっては、つくづくと娑婆の自由を味わった。その自由な気楽さは、物ごころがついて初めて経験する、新鮮な甘い感触であった。



11.とまどい

 少しずつ心と体の疲れを癒しながら先ず戸惑ったのは、日本占領のために進駐してきた連合国軍の姿であった。褐色のベレー帽をやや斜めにかむり、軽快なジープに乗って颯爽と疾走する彼等には、微塵の疲れも見えないばかりか、物にも心にも綽々とした余裕さえ湛えていた。こんな豊かな国々を相手に戦争をしていたのか、という今更の思いであった。都会では引き続く食糧不足で多くの餓死者が出るし、エンゲル係数は一時70%以上とも言われた猛烈なインフレの中で、「平和」とか「自由」とか「民主主義」とかいう、今まで口にすることさえはばかられた言葉が氾濫しはじめた.。
 一挙に溢れ出した戦争批判論にも驚いたが、更に思想・道徳の規準とされていた教育勅語さえ否定されるに及んで、私の価値判断は混乱の極に達した。中学校の焼け跡のバラックの建物を訪問した時には、嘗ては「必死尽忠」を熱っぽく説いて生徒達を戦場に駆りたてていた教師たちが、車座になって「・・・あの時代はあれで仕様がなかったなぁ」と言うようなことを話していた。その無責任な締まらない顔を見て、私は怒る気持ちにもなれなかった。
 連合国軍(GHQ)は、めまぐるしい早さで、財閥解体・農地解放・教育改革・労働三法等々の施策を打ち出し、軍事裁判も始まろうとしていた。9月27日、天皇陛下が占領軍総指令官マッカーサーを表敬訪問したという新聞のトップ記事に私は自分の目を疑った。GHQの置かれている第一生命ビルの前で、天皇がマッカーサーと並んで立っている写真では、両腕を普段着の腰に当てて悠然と構えている大柄の敵将の隣に、モーニング姿で直立している背の低い、少し猫背の天皇がいかにも貧相な姿に見えた。
「まるで勝者の軍門に命乞いする姿ではないか!これが、つい先頃まで凛然と白馬に跨がり、その名に於て多くの民草を死に追いやった『神聖ニシテ侵スベカラザル現人神』の実像なのか?それとも、これは会稽の恥をそそぐための臥薪嘗胆の仮の姿なのだろうか?」何れが虚像で、どちらが実像なのか?
 昭和21年の年頭には天皇が「朕はもとより神ではなく人間である」という人間宣言がなされ、「はじめから平和主義者であった」とも宣われた。それなら「皇国護持」のためにと戦陣に散った特攻隊の死は何であったのか?何百万人という多くの民草の死には、どういう意味があったのか?彼らの死を無駄にしないためには、生き残った者たちは何をしなければならないのか?・・・疑問はますます深まった。
耳元ではついこの間まで聖戦必勝を唱えていたラジオが、長い時間帯の「訪ね人」の合間には、戦争批判論を報じている。真正面から天皇制打倒を訴えている日本共産党は、亡命していた野坂参三の帰国を迎え、18年の獄中生活から釈放された徳田球一や志賀義男等が水を得た魚のように大活躍で、21年4月戦後初めての総選挙では、一挙に多数の当選者を出した。
 今までの価値観がぐらぐらと揺れ、風化しつつあるのを懼れた私は、公職追放で生家に復員していた兄を訪ねてみた。農夫になりきった姿の兄は、鍬を振るう手を休めもせず、「何も言うことがない」と取り付く島もない。終戦当時は陸軍の中枢にいたのだから、ポツダム宣言受諾を阻止しようとした反乱軍のことなども知っているはずだが「余りにも凄惨な記憶だ。早く忘れたいだけで、何も喋る気持ちになれん」と、何も話してくれない。
 世代や価値観も同じ筈の兵学校の1号生徒なら、必ず何かの示唆を授けてくれる違いない、と先輩のお宅を訪ねてみたが、私の激しい憂国論に困惑した柔和な顔からは、嘗ての凛々しく頼もしい「鬼の1号」のイメージが消えていた。「兵学校の教育が正しかったとは言えんしねぇ・・・俺はこれから高校〜大学へ進んで、勉強のやり直しをするんだ。・・・」と、議論は全く噛み合わない。進学の目途を持たない私は、何の苦もなく進学できる彼への羨望を秘めながら、とぼとぼと元来た道を戻るしかなかった。
 再軍備のために蜂起する気配は、何処にもありそうにない。あれほど全生活を支配していた天皇絶対主義や厳正な軍紀とは、いったい何だったのか。それは単なる虚構か時代の流行に過ぎなかったのだろうか?などと思い悩んでフト気づいたのは、いつまでも軍国主義に呪縛されている自分の時代錯誤である。その愚かしさを知ったとき、積年の軍国主義が、まるで狐つきが落ちたように崩れ去った。
 青年達は戦争で抑圧されていた青春を一気に取りもどそうと、猛烈な勢いで流行した社交ダンスに熱中し、演劇や楽団などに夢中になっている者も大勢いた。 アプレゲール(戦後派)とかデカタン(「頽廃」)という言葉が流行したのもこの頃である。 
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