昔は良かった! か?

〜 日本の将来を憂う! のか? 〜



伯父が亡くなった。
祖父母は、父方母方共にとうになく、伯父伯母の死も重なっていく。自分の歳を振り返れば、もう40代の半ばにさしかかっているのだから、当たり前だ。自分の意識としては、まだまだ若いつもりだし、実際、精神的には高校生の頃から全く進歩してないのだけど、伯父伯母の死が続くと、自分自身の寿命ですら、なんとなく意識し始めてしまう。人生も既に、半分は過ぎてしまっているのだ。
親戚の葬儀の度に、遠方に暮らす従兄弟達と再会する。それはそれで、とても楽しいのだけど、彼らとは葬儀の時にしか顔を合わすこともない。そして、その頻度が高くなっていく。別れ際に「それじゃあ、今度また誰かの葬儀の時にね」などと言ったりする。

今回亡くなった伯父は、家が割と近かったこともあり、夏休みや冬休みにはしょっちゅう遊びに行き、一番仲の良かった伯父なので、その死はひときわ寂しい。
とても楽しい愉快な人だった。商売人だが、全然やり手ではなく、その人柄と信用で仕事をしていたような人だ。
ただ、いくら家が近くてしょっちゅう遊びに行っていたとは言え、さすがに高校生以降は滅多に行く事も無くなり、思い出はもっぱら小さい頃の事ばかりになる。そして思う。昔は良かったなあ。と。

ん?
「昔は良かった」?
この言葉を口にした瞬間から、それはもう老化の顕著な兆しだ。
紀元前のギリシャか何処かの遺跡から発掘された文書に「近頃の若い者はなってない」という記述があるが、それと同じように、「昔は良かった」と言う言葉も老人の決まり文句だ。気力体力共に衰え、将来に対する野心と希望を無くし、過去の思い出だけにすがって生きている状態だ。仕事でも私生活でも、新しいことをやろうという意欲を無くし、ひたすら過去への回帰か、最低でも現状維持にしがみつく守旧派として社会のガンとなるのである。
もちろん、この言葉は僕には似合わない。と思う。新しい事に興味津々で、いい歳していつまでもアホな事をやって、何事に対しても首を突っ込みたくなる僕の意識に、昔を顧みる余地は少ないし、僕の生き方からすれば全く不本意だ。僕を知っている人も、そういう目で僕を見ていると思う。

それなのに、なぜ今回、「昔は良かったなあ」なんて思ったのか。
「昔は良かった」と言う言葉には、通常「昔は良かったけど今はダメだ。昔に返りたい。昔に返るべきだ」という気持ちが込められている。しかし、僕が心配しているのは、「昔に返ってしまうかもしれない。昔に返らざるを得ないかもしれない」と言うことだ。
何を心配しているんだ?って?
もちろん、日本の将来さ!誰だって良識ある日本人なら日本の将来を心配するだろう!?

日本はこれからどうなるんだろう。今の日本の状況は、かなり暗い。末期的な政治状況は今に始まったことではないし、国際的な存在感の無さも相変わらずだ。それでも日本がなんとか生き延びてきたのは強力な経済力のおかげだ。その経済力に陰りが出ている今、どうしても日本の将来を憂うのは避けられない。
これに対して楽観論もあるし悲観論もある。今は少々調子が悪いが、日本の潜在力は捨てたもんじゃない。高い教育水準と勤勉さに支えられた日本の底力が再び蘇るはずだ。と言うのが楽観論だ。しかし、頭の悪い文部官僚による日本人総バカ化政策のために教育水準は低下する一方だし、最近の若い人の勤労態度を見ていると、とてもじゃないが勤勉とは言えない。中国などの強烈な追い上げに対抗する唯一の武器である人材がそういう調子じゃ、もう勝ち目は無い、と言うのが悲観論だ。
どちらも一理はある。かつては楽観的だった僕も、最近は悲観論に傾きつつある。

しかし、ここで考える。悲観論でもいいじゃないか。って。
悲観論のシナリオで行けば、日本は落ち目街道まっしぐらで、そのうち生活水準は低下を始める。しかし、生活水準が低下したって良いじゃないかって思うのだ。
今の若い人は、今より低い生活水準というものを知らないから、もしかしたら想像がつかないかもしれない。
最近の20年で、生活は一体どう変わったか?ちっとも変わっちゃいない。最近の世の中の特徴として何かにつけてIT化が言われるけど、日本で最初にパソコンが出たのは、もう20年も前であり、大学を出て会社に入ったばかりの僕はすぐにパソコンを購入した。インターネットは無かったけど、パソコンをモデムで電話につなぎ、パソコン通信なんていうインターネットの祖先のような事をしていた。車にしたって住宅にしたって、今とそんなに変わっていたとも思えない。
しかし、そのまた20年前って、ものすごかった。激変だ。僕が生まれた頃、テレビなんて無かった。テレビが普及したのは東京オリンピックからだ。車も一般家庭が所有できるものではなかった。お風呂は薪で沸かしていたし、トイレは汲み取り便所だった。初めてテープレコーダーを見たときの驚きと言ったら。電話だって滅多に無かったし、クーラーなんて世の中に存在しなかった。冷蔵庫だって氷屋さんから買ってきた氷を使って冷やしていた。最近テレビでミャンマーとか東チモールの風景が映し出されたりするが、考えてみれば、40年前の日本なんて、その程度だった。
しかし、それは不幸な生活だったか?いや、そんな事は無い。絶対に無い。人は辛いことは忘れて良い思い出だけが残りがちだ。それは、生物として生き延びていくために必要な能力だ。しかし、それにしても昔の生活が不幸だったとは絶対に思えない。それどころか、幸せな時代だったと思う。
子供の頃、遠足や運動会の一番の楽しみと言えば、母の作ったお弁当だった。卵焼きやソーセージの入ったお弁当は、滅多に食べられないご馳走だった。家族や友達と食べるお弁当は、本当に嬉しく楽しかった。今、自分の子供達を見ていると、遠足や運動会のお弁当なんて、ほとんど見向きもしない。むしろマクドナルドの方が嬉しいくらいだ。夕食にしたって、年に何回か、誰かの誕生日にだけ食べられるカレーライスの美味しかったこと。今どきカレーなんて手抜き料理とバカにされる。子供の頃の貧しい食生活のおかげで、今でも何を食べても美味しくて喜びを感じる僕としては、小さい頃から美味しいものばかり食べるせいで、食べる喜びが乏しくなった今の子供が気の毒だ。
ついつい食べ物の話にムキになったが、食べ物だけじゃない。車が無くても自転車でどこまでも行ってた頃が懐かしい。テレビゲームなんて無くても色んな事をして遊んでいた頃が楽しい。コンクリートが無ければクーラーなんて無くても平気だし、年がら年中同じ服を着てたって構わないし。

って事を考えていたら、また生活水準が低下したって良いじゃないか、って思えてくるのだ。別に辛くも悪くも無いじゃないか。伯父さんと遊んでいた昔の暮らしに戻れば良いだけじゃないか。そんなに必死で今の生活にしがみつくこともないじゃないか。世界の片隅でのんびり生きていってもいいじゃないか。なんて思うのだった。
みなさん、どう?


(2002.5.18)



〜おしまい〜





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