野茂引退

〜 これまた 涙 涙 涙 〜



野茂英雄投手が引退を表明した。ただただ愕然とするのみだ。一つの時代が終わったって感じ。

僕が言うまでもなく、野茂秀雄は日本人大リーガーの開拓者だ
社会人時代から注目を集めた野茂は、1990年に近鉄バッファローズに入団し、1年目から大活躍し、最多勝、奪三振王などタイトルを総ナメにした。その後、5年間活躍した後、近鉄と喧嘩別れ状態で周囲を振り切って単身アメリカに渡り、日本人大リーガーとなってドジャースに入った。
いくら日本で活躍したからと行って大リーグでやっていけるのか、という冷ややかな目が多かったが、最初の1995年からいきなり活躍し、フォークを武器に13勝6敗、リーグ最多の236三振という驚異的な実績を残し、新人王を受賞した。この年のオールスター戦には先発に抜擢されて2イニングを無失点に抑えた。単に、日本人として驚異的な活躍をしたというだけでなく、前年から続いていた選手会のストライキによってファン離れが見えていたアメリカの球界を救った功労者とも言われた。圧倒的な活躍と存在感によりノモマニアという流行語も生まれるほど人気を得て、クリントン米大統領は「野茂は日本の最高の輸出品」とまで絶賛した。翌1996年には打球が飛ぶとされる標高1600メートルのデンバーで行われたロッキーズ戦でノーヒットノーランを達成したし、さらに2001年にレッドソックス移籍後は史上4人目の両リーグでのノーヒットノーラン達成をやってのけた。
我々日本人は、アメリカの大リーグにおいて日本人が大活躍しているという側面から熱狂したが、アメリカの野球ファンは、日本人だからどうのこうのなんていわず、とにかく圧倒的な野茂のピッチングに熱狂したものだ。

このように圧倒的な活躍をした野茂だが、ドライなアメリカ球団は、調子が悪くなるとすぐトレードに出したりするから、野茂は数々の球団を転々とした。転々としつつも、フェニックスとも言われた野茂は、何度もマイナー契約からはい上がって実績を上げ続け、アメリカで通算123勝、日米通算では201勝をあげた。

ただし、2006年にホワイトソックスの3Aのキャンプ中にひじを痛めてからは厳しかった。夏に手術をし、その後はリハビリを続けていた。この間、どこで何をしているのか情報が全く入ってこないもんだから、心配で心配で仕方なかった。野茂はどこへ消えてしまったんだ、って。しかし、昨年オフにはベネズエラのウインターリーグに参加しているっていう情報が入ってきたし、「もう1度、どうしてもメジャーのマウンドに戻りたい」というコメントもあった。
そして、なんと今季、招待選手としてロイヤルズのキャンプに挑戦し、3年ぶりに奇跡的にメジャー復帰したのだ。これを聞いた時、感動で体中が震えたものだ。しかし、痛めていた右ひじは完治しておらず、ストレートは140キロを超えることはなく、フォークボールのキレも戻らなず、僅か3試合、計4回1/3を投げて9失点で4月20日に戦力外通告をされた。
その後も復帰を目指して調整していたけど、遂にこれ以上の挑戦を断念し19年間のプロ生活に別れを告げたのだった。

野茂が引退するなんて、ほんと、もう胸にぽっかり穴が開いたようだ。今年は北京オリンピック出場を賭けた名古屋女子マラソンで高橋尚子が惨敗したし、スポーツ界の輝く星が落ち続けていく。イチローや野口みずきや中村俊輔がいくら素晴らしくても、野茂や高橋尚子や中田の代わりにはなりえない。なぜなら、野茂や高橋尚子や中田こそが開拓者であり、それ以降の者は、全てその追随者に過ぎないからだ。開拓者だけが、周りから冷ややかな目で見られようが、そんな事は気にせず、自分を信じて、自分の夢だけを追いかけて全力で突っ走ってきたのだ。イチローも松井も、みんな野茂がいたからこその大リーグだ。野茂が開拓した道を安穏に歩んでいるだけだ。パイオニアの野茂が、最初はボロボロに言われながら開拓していった後からノコノコついて行っているだけだ。
実力だけで成功を勝ち取ったロマン溢れる孤高の開拓者が、僕は大好きだ。その開拓者が、こうしてひっそりと消えていくのを見るのは、本当に悲しい。悲しすぎるよう。

(2008.7.20)



〜おしまい〜





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