左は、『屏風秘録』です。上大野村から、三之進、武左衛門、鉄五郎、勇之進が召し捕られました。
- 武左衛門は、国賊から侠農、義農、義民と、時代に応じて評価が変わっていきます。江戸時代末期に安藤儀太夫が信仰の対象となり、武左衛門は悪人とされました。それを日吉村の初代村長井谷正命が地元の伝承をもとに、再評価していくわけです。では、本当の姿はどうだったのでしょう。
- チョンガリとなり全領を3年かけてまわったことは証明できませんが、山奥筋をまわったことは考えられます。子供の一人が山伏であったことから、父である武左衛門がチョンガリを語ったことは考えられます。チョンガリが一揆を煽動しているので、鈴木作之進は村から出すように指示しました。
- 一揆で武左衛門が全体を指揮したことはあまり考えられません。一揆全体の指導者がおらず八幡河原では混乱しました。
- 彼は、山奥筋の優れた指導者でした。取り調べに当たった吉田藩役人も、考えも深く願いに非があるとも言えないと書き残しました。吉田藩の専売制は藩内からも批判されるほどのものでした。
- 宇和島藩友岡代官は、近永で山奥筋から願書を受け取りました。八幡河原で百姓たちが願書をようださないの見て、近永で会った山奥筋のひときわ優れた百姓にとりまとめを依頼しました。それが武左衛門であったことは間違いのないことです。
- 3年領内をまわったというのは伝承ですが、実際の武左衛門も優れた人物だったのです。
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