紀貫之 きのつらゆき
平安中期の歌人・文学者 醍醐天皇から「古今和歌集」の選定を命じられて従兄(いとこ)の紀友則、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)とともに編集に従事するが、筆頭選者の友則が病死したため、最年少の貫之が選定の中心となり、有名な仮名序を執筆した。

またその歌も「古今和歌集」最多の99首がおさめられている。専門歌人として多くの歌合で活躍し、宮廷や高位の貴族の屏風(びょうぶ)歌をつくったが、官位にはめぐまれず、延長8年 、60歳をこえた高齢で土佐守として京をくだった。

土佐では公務を誠実におこなうかたわら、「新撰和歌集」の編集に従事。ここで4年間の任期をおえ、土佐から帰京するまでの55日間の出来事をえがいたのが「土佐日記」である。女性に仮託して平仮名で書かれたこの作品は、のちの女流文学の発展の基礎をきずいた。

古今和歌集 こきんわかしゅう
平安時代につくられた最初の勅撰和歌集。
収録された約1100首の和歌は、ほとんどが5・7・5・7・7の31音からなる短歌であり、「万葉集」以来の旋頭歌(せどうか)と長歌は大幅に減少した。

部立て、すなわち分類は、春(上・下)、夏、秋(上・下)、冬、賀、離別、羇旅(きりょ)、物名、恋(1〜5)、哀傷、雑(上・下)、大歌所御歌で、とくに四季と恋の部に重点がおかれている。これらの歌はきわめて論理的に構成・配列されており、四季の歌なら立春から歳暮まで、恋の歌なら恋の始まりから別れまで、というように時間の推移によって配列されている。

収録された歌の年代は約200年にわたるが、3つに区分するのが一般的である。はじめに「万葉集」に近いよみ人知らずの時代があり、つづく六歌仙の時代に和歌の基調が確立され、撰者時代にいたっていわゆる古今調が完成された。

作者は名前がわかっているだけで120人をこえるが、ほかによみ人知らずの歌も多い。貫之の102首を筆頭として、躬恒・友則・素性(そせい)・忠岑・業平・伊勢などの歌が多く入集している。

みたことや感じたことをそのまま歌にするのではなく、いかに趣向をかえてよむかがこの時代の関心事であり、それを反映して、掛詞(かけことば)・縁語・見立てなどを多用した技巧的・理知的な歌風に特徴がある。優美・繊細な歌が多く、「万葉集」の男性的な「ますらをぶり」に対し「たをやめぶり」とよばれる。
しかし、明治時代に正岡子規によって批判されたように、あまりに観念的にすぎるという欠点も指摘されている。
土佐日記 とさにっき 
平安時代に仮名で書かれた最初の日記文学。作者は紀貫之
国司の任務をおえた貫之が、934年(承平4)に土佐を出発して京に到着するまでの55日の出来事を叙述する。「をとこ(男)もすなる日記といふものを、をむな(女)もしてみむとて、するなり」とあるように、女性の視点を導入し、多分に虚構をおりまぜながら、日々の記録をしるしていく。

内容は、知人との別れ、人情の機微、自然の脅威、行く先々での感慨など多岐にわたり、ユーモアや社会批判をまじえた記述も、おりにふれておりこまれる。なかでも、土佐で失った愛娘に対する哀悼の叙述は印象深く、この作品の主題のひとつを構成している。

また、全編に57首の歌を配しながら歌論をわかりやすく展開し、歌道の入門書的な役割をはたす工夫もほどこされた。
男性の漢文日記にかわる新しい表現の可能性を切りひらき、のちに発展する平安女流文学の基礎をきずいた点で、「土佐日記」のはたした功績はひじょうに大きいといえる。
戻る