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【タマのひとり言】2001年8月21日〜2001年12月18日迄ttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttt

2001・12・18 『芦別の龍、沖縄の龍…、その3

もうすっかり暗闇に包まれ、なお一層光り輝く函館の夜景の中でジコリさんと別れ、ひとりホテルへと向かうのでした。

ジコリさんとタクシーの中で、先程終わったばかりのインタビューの話になりました。
「この後もたいした予定がない」と言うジコリさんは、8日に私が予定していた函館神社巡り、そして10日に『山部』の大本教北海支部まで龍に挨拶に行くという話を聞いて、「ぜひご一緒したい!」という話が出来上がってしまうのです。

“それまでのんびりと映画でも観てるか…”と翌日は『ハリーポッターと賢者の石』を観て過ごしました。何故かこんな“お子ちゃま向け”の娯楽映画を観ていて、私はその時代背景の懐かしさに訳もわからず涙していました…???
7日には“さて何を観ようか…”とホテルのロビーで新聞を広げるのですが、なんにもいいのをやっていない…。

ところがその時私の頭には、八木橋邸で『W遠トリ』の時に流れていた音楽を思い出したのでした。そしてそのCDのジャケットがぼんやりと脳裏に浮ぶのです。

“あれはたしかエンヤの曲で、ジャケットに写っていたのは竹野内 豊だったかな…?映画の題名は『冷静と情熱の間』だったっけ…?”
と考えながら新聞を眺めると、上映館一覧のところに同じ題名の映画をやっている事に気が付いたのでした。

そう言えばインタビューの時に八木橋くんがわたしに、

「コレ、いいっしょ…、えぇ〜っと、タイトルなんだっけ?そうそう『冷静と情熱の間』。コレって今の玉川さんに一番必要な言葉だナ」

「えっ?……。うん、なんだかわかるような気がする」

「ねっ!玉川さんの情熱は熱いくらい伝わってくるし、わかるんだワ。でも冷静もそれ以上に必要なことなんだワ…。それさえわかれば…。もうちょっとのところまで来てるのに…」

「えぇ〜…。そうなの?」

「うん、そうですヨ。もうすぐ、もうちょっとで、玉川さんにも全てがわかる時が来ますヨ」

「ふぅ〜ん…」
という会話をしていたのを思い出しました。

“しかたない…。コレでも観るか…”と、仕方なく行ったのが良くなかったのか、全然私には面白くありませんでした…。

元来わたし、“恋愛もの”は映画もTVも絶対に観ないのです。
何故かというと、こと“恋愛もの”に関しては観ている内に筋書きが全部読めちゃってアホらしくなってしまうのです。
“次はきっと、こんなセリフ言うだろうなぁ〜”とか、“ここではこうなるだろう…”って…。
そして結局は欠伸の連発…、挙句の果てはよだれを垂らしながら熟睡しちゃうというのが、この手の映画の私のいつものパターンだったのです。

結局、私の予想どおりでした。
昨日の『ハリーポッター…』でさへ、少しですが涙を流したのに…。
途中私は居眠りしちゃって、一番いいところを見逃したらしいのですが、目を擦り直してスクリーンを眺めていると、思った通りの展開になっていました…。

映画を観終わって、私の感想をひと言で言えば、
「竹野内 豊って、男前だったなぁ〜」くらいですか…。

8日は絶好の“神社巡り日和”でした。
この『ジコリとタマの函館神社巡り』は、ジコリさんが写真付きで体験談を書いてくれると思いますので、私は簡単にサッっと通り過ぎるだけにしておきます。

ジコリさんとバス停で待ち合わせをして、まずは『亀田八幡宮』を参拝。
この数日間で函館にも雪が何度か降ってはいたのですが、さすがに札幌よりも南に位置しているせいか、札幌に比べると暖かく、道端にもほんの少ししか雪は積もっていませんでした。

参拝を済ませたのがちょうど昼時だったので、近くのグリルで昼食を済ませました。
「寒いから、私は少しでいいですぅ〜」と言うジコリさんのグラスに半分ほどビールを注いで、あとは全部私がいただきました。
参拝の途中で飲むビールの美味いこと…。
結局わたし…、何処でどのようなシーンでビール飲んでも、「美味い!」と言ってるんじゃないでしょうか?

昼食後、タクシーを飛ばして『函館八幡宮』へ…。
ここには私のお目当ての『勾玉池(まがたまいけ)』というのがあって、そこは『蝦夷ヒキガエル』がいて、この池こそが北海道唯一の繁殖地になっているのです。
そしてこの池は、私がここへ来るたびにエネルギーを封入している“お約束の場所”だったのです。
今年の夏に訪れた時には、湖面一面につがいになったカエルたちがゲロゲロと大きな声を発しながら繁殖行動をしていたのですが、さすがにこの寒さでは函館山に帰って冬眠しているのでしょう。

そこから山道を徒歩で10分くらい行くと『護国神社』…。
この近辺に沢山ある神社の中でも、ちょっと異質なエネルギーの神社です。
ここは『縁結び』と『学業成就』が有名だったのかな?
とにかく塾をやっている八木橋くんが、「護国神社は合格祈願にいいんだワ!」と、いつも受験生にはココのお守りをプレゼントすると以前言っていました。
彼は、今はきっと自分でやってるんじゃないかな…。

そしてまた徒歩10分くらいのところにあるのが、私が函館で一番好きな神社。
船魂神社』です。
ここでの話を書き出すと、体験談が一つ出来ちゃうくらい面白い体験をしました。
特に境内の脇の方にひっそりと奉られている『福禄寿』さん…。以前にココを参拝後、八木橋邸を訪ねたら、

「玉川さん、なんだか今日は生臭い…。何処か寄ってきました?また何処かの神社とか行って、“伝授”とかやってきたでしょ…。なんだか老人のような匂いもするけど…」ってすぐに見破られてしまいましたが…。

「うん、それじゃぁ『船魂神社』の福禄寿さんかな?」
「あっ、それそれ。福禄寿って北極性なんですよネ!死を司る星。安部晴明あたりは、それを逆に“生を司るもの”として使役していたようだけど…。ん…、待てよ。一つはそれとして、もっと獣臭い匂いもするんだけど…」
「じゃぁ、きっと次に行った神社かな…?」
と、次の神社へと、この話は続いていくのですがネ…。

私のこのページの扉の写真もココ『船魂神社』の境内です。

扉の写真にも写っていますが、ココにはいつも何匹か野良猫がいて、初めて参拝した時は石段の上で黒猫がお迎えしてくれたのです。そのクロが参拝を終え返ろうとした、初めて訪問した私の足元に、まるで「まだ帰らないで…」と言わんばかりにまとわりついていたことを今でも思い出します。

今ではそのクロも何処へ行ってしまったのやら、何度来ても顔を出さなくなりました。私はその猫に餌をやるのがココへ来る目的の一つになっていたのですが、今はもういません…。
だからその代わりに他の猫たちの為に、私の函館神社参拝はいつもリュックに猫の餌の缶詰を2・3個と使い捨てのお皿やスプーンを入れての参拝です。

そして最後に参拝する神社。ココは、またこの地では何処よりも参拝しづらい場所にあるのでした。急勾配の山道を上がりきった所にその最後の神社はひっそりとたたずんでいて、ロケーション的にはこの辺りでは最高の神社だと私は思います。

その名も立っている場所にふさわしく、『山上大神宮(やまのうえだいじんぐう)』。

ココでの思い出も沢山あります。
特に先程の八木橋邸での話に繋がる、白蛇が浮かび上がっている石。
その周りには荒縄で四方を囲っており、紙しでが何枚もぶら下がっています。
この蛇さん(みぃさん)も、思いで深い出来事がありました。

ここから先程の話に続くのですが、八木橋君にこの蛇石の話をすると、
「玉川さん、連れてきましたネ。その蛇淋しがってるワ」とだけ、ひと言ポツリと言うのでした。

その日の夕方は八木橋君といつもの山の中にある南茅部の露天風呂へ行く予定だったのですが、何故かいつもと走る道が違うんです。
彼は「玉川さん、今日はちょっと見せたいものがあるから寄り道して行きましょう」って車を海沿いに走らせるのでした。

そして街道沿いにある『三味線の滝』という名前の看板が立っている、チョロチョロと流れる滝の前で一休み。

「ココ、神さんがいるんですヨ!蛇のネ!ウチの長男をここへ連れて来た時、“あっ、ココ神さんいるネ。気持ちいいから…”って言ってたんだワ」と言う彼の言葉で、何故ココへ私を連れてきたのかがわかりました。

「私の体内に居る白蛇さんをここで放してやるんだネ」
「うん、そうそう…」
と言い終らない内に、この滝の蛇(おそらく龍神)を呼び、私の中の蛇を放したようだった。

その瞬間に、辺り一面のエネルギーが心地よいものに変わったのを感じた。

「イヤァ〜、今日はいいことしたワ!きっと僕にコレをやって欲しくて玉川さんの中に入っちゃったんだワ。これでココの神さんも“つがい”になっちゃった…。玉川さんもいいことしましたネ。きっとご褒美がありますヨ!」

「・・・・・・・・・・。」

と、以前この神社を参拝した時に体験した不思議な出来事を思い出したのでした。

私たちの今日の『函館神社参拝』、そして10日に予定している『芦別の龍』は、今頃ジコリさんが体験談として詳しく書いてくれていることと思いますので、今回はちょっとだけ、さわりの部分だけを書いてみました。

全然、タイトルからかけ離れちゃいましたネ。

よく私の体験談を、“うそ”だとか、“つくりもの”だとか言う人がいますが、全部本当の話です。
全部、八木橋君と一緒に体験してきたこと…。
それを私は、ただありのままに書いているだけなのですヨ。

それでは後はジコリさんにバトンタッチしましょうか…。

―――――おわり―――――

2001・12・17 『芦別の龍、沖縄の龍…、その2

ライトアップされ光り輝く八木橋邸の玄関の前にたどり着くと、家の中から子供達の元気な笑い声が表まで聞こえていました。
身体に少しまとわりついている小雪を手袋を履いたままの手ではらい除け、私がジコリさんを先導するように玄関の扉を開けると、

「あっ!タぁ〜マちゃ〜ん」と、八木橋家の3人の子供達が声を揃えて合唱し、競うように駆け寄って来るのでした。

一番下の青衣(あおい)くんが、「ねぇ〜タマちゃん…、コレなぁ〜に?」
と、私が手に持っていた紙袋をいち早く見つけて中を覗き込んでいる。
それをまるで合図のように、「なぁ〜に、なんだ…、なに入ってんの?」
と、これまた合唱の嵐である…。

実はクリスマスも近い事だし、ここへ来る前にジコリさんと函館の『丸井デパート』で子供達にプレゼントとプリンを買って来ていたのでした。

さすが超能力者の子供達。
そんなことは既にお見通しだったに違いない…。
おそるべし!!

八木橋ご夫妻も加わって、楽しくて賑やかな夕食が始まる。
いつもバニラと食事をしている私には、この家族団欒のエネルギーがなによりのご馳走でした。
ジコリさんは少し緊張しているのか、固く小さくなって食べていました。
ヤギママさんもやっと席につき、食べだす姿を見ていると、ある情景が私の頭に浮んでくるのでした。
それは以前八木橋くんが話してくれたことで、大黒屋さんに最初に会った5月頃から彼は私によくこう言っていました。

「いやぁ〜、玉川さん、僕ね、大黒屋さんが家に遊びに来るような気がしてならないんだワ。ランディーさんなんかも連れちゃってね。それをウチのカアチャンに話したら、“えっ、何しに来るの? いいよ、そんなの来なくたって…” って軽くあしらわれちゃって…。カアチャンには敵わないなぁ〜。だってあの大黒屋さんを “そんなの” って簡単に言うんだもの…」

と、思わずその時の情景が私の脳裏に浮んで、一人思い出し笑いをするのでした。
この亭主にして、この女房ありか…。この絶妙の組み合わせというか、凄いカップルというか、わたしにはヤギママさんの口癖ではありませんが、“なんだかよくわからない”としか言い様がありません。

いまだに八木橋くんは、「大黒屋さん、ウチに来るよ」と言っています。
彼が言うのだから、きっとその内来る事になるのかもしれないですネ。
その時は、私もお邪魔しちゃお〜っと…。

9時から『W遠トリ』があるので夕食を早々と切り上げ、2階の小部屋で『ジコリのインタビュー』が始まる。
私は前回のインタビューで、酒の勢いも手伝ってか、あまりにも下品なだけのただの助平なオジサンになりきっていたので、今回はなるべく喋らず冷静沈着に答えようと努めるのでした。

ところがインタビューが始まると、夕食時に飲んだビールが徐々に口を軽くしていき、結構余計な事を話したのではないかと、今更ながらビクビクしています。
なんせ私、濃い話や裏事情を随分と知っていますので、話が白熱してくると押さえきれなくなっちゃうんです。
とくにインタビューの時期がETP独立、八木橋選任理事就任なんて時期と重なっていたものだから…、でもたぶん肝心なところは話さなかったと思います…ヨ、たぶんネ…。

出発直前まで秘密にしていた、『ヤギパパ沖縄一人旅』の話も結構盛り上がったし、今回はなかなか身のあるインタビューになったのではないかと思います。

2時間くらいのインタビュウーが無事終わり、『W遠トリ』が始まる。
これの見学が今回の『ジコリのインタビュ』ーの目玉ではないのかと、その時わたしは“ふ”と感じたのでした。
我々普段はお互いに随分と離れた場所にそれぞれが住んでいるので、他人に調整している姿を見られることもないし、見せることもありません。
我々の『W遠トリ』を直に目の当たりにするのは、PHの会員さんでは大阪の前田調整師以来初めての人ではないでしょうか。
何故か緊張し、髪型を今更ながら直しだす、わたし…。

我々二人がテーブルを挟んで、カルテを見ながら打ち合わせをし、黙々と『遠隔調整』をおこなっている姿を少し遠くから不思議そうにジコリさんは眺めていました。
大の大人が二人で、
「痛てっ!」とか、
「うぅぅ〜、こりゃぁでんぐり返るわ…(八木橋くんの口癖なのです)」と喋りながら、何も無い空中に両手を差し出しクネクネと動かしている様は、知らない人が見たらきっと、“アホ”に見えたことでしょうねぇ〜、、、。

その内にジコリさん何を思ったのか、やおらバッグからインスタント・カメラを取り出して写す写す…。
きっと、この二人の“アホ”のような姿も、『ジコリのインタビュー』に載ることでしょう…。

そうこうしている内に『W遠トリ』も無事終了し、ビールをまたご馳走になる。
そとは1度くらい、室温は24度くらいであろうか、こういう状況で飲む冷えたビールの味はまた格別なのであった。
とくに、『W遠トリ』を終えて飲むビールが私は一番好きです。

そんな至福の時間もほんのつかの間、ヤギママさんに電話で読んでもらったタクシーは、ジコリさんと私を乗せて夜のネオン輝く函館の街へと、寒風吹き荒む中をひたすら足早に走り続けるのでした。

―――――つづく―――――

2001・12・16 『芦別の龍、沖縄の龍…、その1

本来は先日の『北海道ひとり旅』を体験談として書くべきなのでしょうが、何故か書けません。題名だけは『芦別の龍、ふたたび…』と決めていたのに…。書く気が起きないのです。

“それは忙しすぎるから…?”
いえ、それだけではありません。
おそらく“今は書くな!”と言うことなのだと思っています。
八木橋くんも、この辺のことは感じているようで、彼も何度トライしてもパソコンがおかしくなって消えちゃうかフリーズしちゃうと言っていましたから…。

今回の旅行に関しても何も無かったわけではなく、出発前から起きるいろいろな出来事に、“これはいったいどうなることやら…”と、実は期待に胸を膨らませていたのです。

しかし、“書けない、書けない”と、いつまで愚痴っていても仕方ないので、おおまかなアウトラインだけでも書いておこうかと今日パソコンに向かいました。
果たして、この文章が最後まで書けて、掲載できるでしょうか…?

本来は12月に八木橋家、そしてジコリさんと一緒に行くはずだったハワイ旅行が、米国同時多発テロの為に中止となり、当日の札幌までの往復航空券と宿泊ホテルの予約済みだった私は、その予定を変更することなく、旅行期間の全てを大好きな北海道でのんびり過ごそうと考えていたのでした。

そんなある日八木橋くんから電話で、
「玉川さん、僕沖縄に行くかもしれない…」
と、聞かされたのでした。

「えっいつ? それはまたどうして…?」
「実は今日、沖縄からわざわざ、“みて欲しい”って人が訊ねて来たんだワ…」
と、彼の話はこの後、その時の彼に“見えた、聞こえた”状況を含めてドンドンと怪しい方面に進んでいくのでした。
聞いている私でさへ、
「そりゃぁ〜凄い。絶対いくべきだよ。それは沖縄の神さんに呼ばれたってことなんだね」
と勧めていたくらいですから…。

ひと通り話し終えた彼が、
「僕が沖縄に言ってる時と、玉川さんが北海道にいる時期が何故かちょうど同じ時なんです。玉川さん、この間の原田さんの電話の件覚えていますか?」
「あぁ、芦別から電話が来て、凄いエネルギーを感じたってやつネ」
「はい。それでもし玉川さんさへよければ、その時に芦別に行ってくれませんか…?」
「えっ、おれ一人で…。なにをやりにいくの?」
「ちょうど僕が『龍の尻尾』で玉川さんが『龍の頭』の場所に立つ。このことに意味があるような…」
と、最後まではハッキリとは聞き取れませんでしたが、そこまでの話の流れから気の早い私は北海道での全ての日程を変更し、帰省する前々日に函館から札幌に再び戻り、10日の月曜日に富良野の先にある『山部』へと、ちょうど1年ぶりに行くことにしたのでした。

そんなことをアレコレ考えているとジコリさんからメールが入り、彼女もハワイ行きが中止にはなったものの、その時期に北海道にいると知らせてくれたのです。
そして、ハワイでおこなう予定だった『ジコリのインタビュー第2弾』を二人がいる函館で出来ないかと打診されたのでした。
その事を八木橋くんにも告げ、二人とも返事はもちろんOK!ということになりました。

12月2日に北海道へと旅立ち、4日の午後に函館入りしました。
7日には沖縄へ八木橋くんが旅立つので、二人がジコリさんのインタビューを受けられるのは5日と6日の両日しかありません。
そこで5日の夕方、八木橋くんの調整が終わった時間にジコリさんと彼の家へお邪魔したのでした。

約束の時間である午後6時の10分前に『上磯駅』から電話をかけましたが、彼はまだ調整中らしく私の携帯はむなしく発信音を鳴らし続けるだけでした。

「ジコリさん、電話でないヨ。きっとまだ調整中だと思う。最近の八木橋くんのスケジュールは正に殺人並みの忙しさらしいから…」

「こんなギリギリの時間まで調整やってるなんて、なんだか可哀想…。だって毎日朝・晩と9時からは玉川さんとの『W遠トリ』が始まるんでしょ…? こうやって旅行していてもホテルから電話して一緒にやってるんでしょ…? 聞くところによると、土曜・日曜もやってるって言うし…。八木橋さんは、いつ休んでるの?」

「うぅぅ〜ん…。でもネ、彼は調整が好きだから。それにこれだけ有名になっちゃ…、仕方ないのかもしれない…。去年の今頃の我々の生活状況を考えたら、仕事が忙しすぎるって感謝こそすれ、文句は言えないもの…。彼もきっと、ありがたいと思っているはずだヨ…」

「ふぅ〜ん…。お二人に依頼したクライアントさんは幸せだネ。こんなに真剣にやってるなんて、きっと誰も思ってないヨ」
と、ジコリさんが感想を言う。
実は、函館からここへ来る車中でジコリさんには散々我々の『W遠トリ』の詳細や進め方について、三種の神器(当月依頼者一覧表・当月日程表・個人別クライアントリスト)を見せてお話したばかりだったのです。

6時を少し回った頃、八木橋くんから携帯に電話が入る。
「ゴメン、ゴメン。ついさっきまで調整やってたから電話取れなくて…。それで今どこ?」
「あぁ、そうだと思ったヨ。今ジコリさんと駅に居るから、今から行くネ」
と、とっくに日の暮れた雪の無い上磯の町をジコリさんと二人トコトコと八木橋低まで歩いていくのでした。

2日に札幌入りした時は雪がチラチラと降っており、午後3時半頃に雪に埋もれた千歳空港に降り立った私は、日本最北端の大地が本州よりもそうとう陽の落ちる時間が早い事を知りました。なんせ午後3時半では既に風景が薄暗くなり、4時には家々の窓には灯りがチラチラと灯り出すのです。

そういう状況ですから、午後の6時を過ぎるとほとんど真っ暗なのです。
そんな真っ暗な夜道の遠くの方に、一際輝きを放っている家が二人の目に飛び込んできました。
「玉川さん、ほら、あのお家。綺麗!」
「えっ、どれ…?」
と、目を凝らして見つめると、そこにはクリスマス用に家の回りをライトアップした八木橋低が浮かび上がっていました。

そしてそこからは、こんなにまだ10メートル近くも離れているのに、優しくて暖かい…、私には懐かしいエネエルギーが流れ出し、我々二人を包み込んでいました。

―――――つづく――――――
2001・12・1 『New or Fresh…

昨日の朝の『W遠トリ』の前に、いつものように電話で話をしていたのです。

それがとても面白くて良い話なので、八木橋くんが、
「玉川さんぜひ『タマのひとり言』に書いてくれませんか。この話は、消さずに残しておきたいんです…」と言うのです。
上手く伝えられるかどうかわかりませんが、みなさんの何かのヒントにでもなればと思い、何とか書いてみますネ。

「玉川さん、僕ね、TVで映画『陰陽師』の主役をやってた野村 萬斎がインタビューを受けてるのを観てたんです。野村 萬斎は狂言界のサラブレッドだけど、最近はシェークスピア劇を演じたりしているらしいんですネ。」

「うん。『陰陽師』の映画は観たし、そういう話も聞いてはいるけど…」

「インタビュアーが“野村さんは、最近は狂言だけではなくて、いろいろと新しいものに挑戦なされているようですが、やはり古典的なものを普段演じられているだけに、新しいものにも興味を示されるのでしょうか?”って訊いたんです」

「うん、うん…」

「そうしたら彼の返答が面白くて、普段僕が思ってることと同じようなことをしゃべってるんですヨ。
“あっ、僕、僕は新しいものには全然興味がないんです”って言うんですよ。
もうインタビュアーがビックリしちゃって…。
“えっ…?”って言ったきり、次の言葉が出ないんです。
そして、
僕はネ、『新しいもの』ではなくて、『新鮮なもの』に興味があるんです。
英語で言うところの『New』ではなくて、『Fresh』かな…、そう『フレッシュ』なものに興味があるんです”って言ってたんです。コレですよコレ、玉川さん!」

と、いきなり言われて、

「へ…? ドレ、なに…?」

と、少し考えて…、

「うぅ〜む…、わかるような、わからないような…」

「古典は、そりゃぁいつまでも古典だけを延々と伝え続けているだけじゃ飽きられちゃうし、飽きちゃう…。
しかし、新しいもの、所謂『新作』は、確かに最初は人の気を引き、目新しいからこそ人目に留まるけど、古典のように百年・二百年とは続いていかないでしょ。
何故、古典は何百年と続いてきたんでしょうか?
それは、そこに常に新鮮な風を吹き込む人が存在するから…。
常に新鮮な風が吹き、流れがあるからなんですよ。

それならば、何故そんなに人目を引く『新作』ものが続いていかないのでしょう…?
それは『流行(りゅうこう)』と同じで、一旦始まると、もうそれは既に『新しいもの、流行(はやり)』ではなくなっちゃうからなんです。

だから、なにかをやってもそれは『新鮮なこと』をやっているのではなくて、全て『新○○』てところからのスタートしかできないからなんですよ。
そうなると、いつまでもは続けられないんですよね。
だって、息継ぎも許されないんだから…。

そういう意味では古典にしか新鮮な風は吹かない。
言い換えれば古典しか生き残れないのかもしれない…。

その為にも、古典を『新しいもの』に置き換えるのではなくて、『新鮮な風』を流してやればいいんですヨ。
僕たちのやってることがそうですよね。」

「うん。わかるような気がする…」

「でしょ…。
だから例えば、この『PH会』はあきらかに古典ですよネ」

「うん。確かに新しいのが二つも出来ちゃったから、そう言われれば古典かな…」

「古典は人目は引かないんですよ。新しくないから…。
でもネ、伝え方、遊び方を常に新鮮にさえしていれば生き残っていける。
後世に伝えていけるんですよ。
それが古典という『PH会』の強みだし、存在の意味なんです。
良いものも、それにあぐらをかいて座っているだけ、留まっているだけじゃ澱んじゃう。
常に流れていないと…。
その為に僕たちは、新鮮な風を送ってやればいいんじゃないですか?
それが僕たち二人の役目だと…」

「うん。
そこに話がいく訳ネ…。
これで何を言いたいのかが、ようやくわかってきたよ…」

「でしょ…。
僕らの役目は、古典に新鮮な風を流してやること。
玉川さん、僕と二人で『PH会』に新鮮な風を吹き込みましょうね!
NEWじゃなくて、FRESHな風を…」

「あいよ!」

と応えて、この『タマのひとり言』を書くために広辞苑で『Fresh』を引くと、そこには…、
『新しい、いきいきとした』という意味が書かれてあった。
そうだな…。八木橋くんの大好きな言葉『いきいきと生きる』の『いきいき』か…。
彼となら出来るかもしれないなぁ〜と想うのでした。


去年の夏、札幌で『エネ遊び』をやっていた頃、関西からゲストで美人ベテラン女性会員さんをご招待したことがありました。
私の体験談にも登場する、私の尊敬する方ですが、この方は大変お洒落な方で、『エネ遊び』が終わって、飲み会の『サッポロビール苑』へみんなで雪崩れ込む前に、ちゃんと“お色直し”で衣装代えを済ませてから参加されたのでした。

その時に八木橋くんがこんなことを話してくれたのを思い出しました。

「玉川さん、○○さん、いいねぇ〜…。お洒落で、粋(いき)で…。
僕は粋な人が大好きなんだワ。自分を大切にし、自分に投資している人。
そう言う粋な生き方を実践している人が…。
そう言う意味では玉川さんも粋な人。
だから一緒にやってんのかなぁ〜…」

なるほど…、『粋』は『息』や『活き』通じ、『生きる』となるか…。
それには、まずは自分が『Fresh』に、『いきいき』と生きなくてはなぁ〜…。

と、一人で納得するのでした。

2001・11・5 『北海道、ぶらり温泉一人旅!

11月2日(金)朝、今日から三泊四日で北海道へ旅立つのだが、天気予報では大型の寒気団が北海道に近寄っており、天候は良くないらしいと今週初めからTVでやっていた。予報では今日は雨、明日・明後日はなんと雪である…。先週まで半袖のTシャツに短パンという出で立ちの私には信じられない話である…。とにかく暖かくしていこうと、Gパンは裏起毛のやつに履き替え、マフラーまでリュックに詰め込み出発する。

高松は快晴、たどり着いた『千歳空港』は外気温9度という寒さであった。確かに天気予報で言っていたように今にも泣き出しそうな空模様であった。JR『エアポート・エクスプレス』で一路札幌へ…。車窓から見える人々も襟を立て、マフラーを首に巻き、おまけに手袋まで履いて寒そうに肩をすくめて歩いているのが見える。

この電車で札幌駅に向かう途中、私にはいつも楽しみにしている風景がある。それは最近ではよく『シンクロ』という言葉も使うようになったが、ソレを去年の3月に初めて車窓から見つけた時には、心臓が止まるかと思うほどビックリしてしまったのだった。

ちょうど『南千歳駅』と『北広島駅』の中間くらいの場所で、『千歳駅』から『札幌駅』に向かう進行方向左手側の車窓から外を眺めていると、ある看板が目に入るのである。
その頃は、まだ八木橋くんとも今ほどは親交も厚くなくて、その車外に『八木橋工務店』という大きな看板を見つけても、「あぁ〜、八木橋という名字は北海道では多いのか…」くらいにしか考えていなかった。ところが、そのすぐ先に並ぶように『玉川サイクル商会』という大きな看板を見つけた時は、まさに「・・・・」であった。
その後、八木橋くんに、「八木橋って名前は北海道には多いの?」って訊ねるが、そうでもなくて意外に珍しい名であると聞かされたし、もちろん玉川もそうであるらしい…。

今考えると、コレが我々の『シンクロ』初体験であった。

そんな事を思い出しながら到着した札幌は曇り空。おまけに駅から外に出ると、ポツポツと雨粒が私の被っているキャップや背中のリュックに音をたてて落ち出していた…。いつもなら駅前にある『ロフト』をブラブラするのであるが、今日は大急ぎでタクシーに飛び乗り、いつも宿泊している『札幌クラッセ・ホテル』へ向かうことにする。
毎月のように宿泊しているので、フロントの青年に顔を覚えられ、宿帳も記帳せずに最近では“顔パス”状態になっている。(そりゃぁ〜、コレじゃぁお金も貯まらないはずだ…)

ホテルのすぐ近くに、私の大好きな『東急ハンズ』があるので、私は札幌に到着するといつも真っ先に買い物に出かける。
「ん…?」エネルギーの話を全然書いていない…。そう、こんなことを書いている場合ではないのだ…。これじゃぁ、いつまで経っても最終日までたどり着けそうも無いので、少し話を端折ります。

とにかくホテルの部屋から、まずは八木橋くんに電話を入れる。
「あっ、玉川さん。どうですか?札幌は寒いっしょ…?」
「うん。寒いし、雨も降り出したみたい…。朝、出がけに時間を2・3日後ろにずらしたつもりだったのに…」
ココで私が話している「時間を後ろにずらす…」とは、以前大黒屋さんとお話していた時に大黒屋さんが、「八木橋くんは、どうやって天気を変えるんですか?」と訊ねていたのである。彼は、「あぁ、僕は“お天気前線”をいじるのではなくて、時間を前か後にずらしちゃうんです。必要な時間だけ晴れるか、雨が降るようにって…」
「あぁ〜そう…。うん、それで正解。前線を動かすのではなくて、時間をずらした方が効果あるのネ…」という会話を私は覚えていたので、早速朝やって出かけてきたのであるが…。
まぁ、まだ始まったばかりだから明日・明後日の天気に期待をしよう…と考えていたら、「玉川さん、実はPH本部から電話があって…」と言ったきり黙り込んでしまう。
「・・・・・・?」なにかまずいことでも起きたのだろうか?
と危ぶんでいたら、「実は、11日(日)に新しい理事会が開かれるんで参加して欲しいと要請があったんです。それで僕行きますけど、理事会後の『東京講習会』にも出ようかなって考えているんですが、玉川さんも出ませんか?」と…。
まだ札幌に着いたばかりなのに、もう次のお誘いである…。

しかし我々、以前から二人揃って『東京講習会』に出ようネと約束していたのである。
少しだけ考えて、「いいねぇ〜ソレ。本部で二人が会うのってTDE調整師の最後の伝授以来だから、2年ぶりだぁ〜」と、、まだ目的地である『カルルス温泉』にも着いていないのに、既に来週日曜日の約束が出来上がってしまっている。
その電話を切った後、すぐに八木橋くんと同じホテルの予約を済ませ、ANAのチケット予約センターに電話をかけて航空券を購入してしまった…。
私って、いったいどういう性格なのであろうか…?

電話で八木橋くんに、「それじゃぁ、みんな玉川さんのエネルギー期待してますよ。特にゆらくんと彼女なんか…もうそれはそれは…」と、タップリとプレッシャーをかけられてしまう。本当に作れるのであろうか?“明日・明後日の天気が悪いと、夜空に月も出ないのでは…”と少し不安である。しかし、時間をずらしたことだし、大丈夫でしょう(たぶん…)。

電話を切った後、”どうして私はこんなにアチコチ動き回っているんだろう?”と不思議に思えてくる。“そうか、風だ!。二人とも風になりたいと言ってるくらいだから…、風は動いてこそ風。ジっと止まっていたら、ただの“空気”だもんな…。ジっと止まってちゃ澱んじゃうし、変化も起きないし…”と、一人納得し床に着くのでした

翌日、嘘のように快晴であった。「やったぁー!」
JR『スーパー北斗』に乗り『登別駅』へ1時間で到着。そこからバスで『登別温泉』まで行く。私の今回の目的の一つは、ココにある『登別クマ牧場』でクマさんに餌をやること。今年の7月に来てから、あのクマたちの愛くるしい姿が忘れられず、また来ようと心に決めていたのであった。

大きい図体のヒグマたちに『ふ菓子』のような1袋200円(10個入り)の餌を投げて与えるのであるが、またコレをクマたちが上手く口で受け取るのである。餌袋を見つけると、我も我もとクマたちが手招きや中には足招きをする奴もいて…。ついつい面白くて、可愛くて、気が付いた時には2000円くらい餌を買っていました…。
そして食道の屋上にある展望台へ、眼下には『クッタラ湖』や太平洋を望み、遠くは『羊蹄山』や『支笏湖』も見ることが出来、最高の展望と最高の天候でした。
残念と言えば、北海道ではもう既に紅葉の季節は終わっていて、あちらこちらにチラホラと赤いものが見える程度で、あとはもうすっかり葉の落ちてしまった裸の木々が寒そうに立ち尽くしている光景しかみられませんでしたが…。

思いっきり深呼吸して、新鮮な空気を吸っていると携帯がまるで邪魔をするかのように鳴り出す。送信者を見ると八木橋くんであった。
「玉川さん、大変だわ!」と、いきなり喋り出す。
「えっ!どうしたの?まさか又誰かがPH会から独立でもしたの?」と、思わずそんな事が頭に浮んでしまっていた…。
そんな私の言葉も気にせず、八木橋くんが携帯の向こうから捲し立ててくる。
「玉川さん、今何処にいますか?」
「えっ?登別の『クマ牧場』だけど…。どうして?」
「そこの近くに『クッタラ湖』ってあるでしょ」
「うん。いま見てるヨ」
「よかったぁ〜…。ソコへ今から、今日中に、是非行って下さい!」
「えっ?急に何言ってるの?どうして私がソコへ行くの?」
『クッタラ湖』でアイヌの神様が待ってるって言ってます。だから行ってください」
「・・・・・。それで俺は行って、何をどうすればいいの?」
「とにかく行けばわかります」
「・・・・・・、わかった…」
「ソコからだと近いから、歩いてもすぐだと思いますから、とにかく早く今日中に…、そちらでアイヌの神が待っていますから…」
「あい…」
と、訳もわからず引き受けたものの、クマ牧場のゴンドラの係員に訊ねると、「そりゃぁ、見た目には直線距離ですぐソコだけど、あんた歩いてなんて行けたモンじゃないっしょ…。タクシーだよ、タクシー」と軽く往なされてしまった…。

バス停近くでタクシーを拾い、「すみません、クッタラ湖へ行って、その後カルルス温泉までお願いします」と、飛び切りの愛想の良い顔で言うと、「お客さん、観光?『地獄谷』とか『大湯沼』はもう見たんかい?」と逆に営業をされてしまい、「ぜぇ〜んぶ、クッタラ湖へ行く途中にあるから、周るかい…?」
結局、全部観光することになってしまう。(今考えるとソレで良かったのかもしれないけど…)

『大湯沼』、『地獄谷』を運ちゃんのガイド付きで周り終へ、最後に訪れた『クッタラ湖』は、日本でも“霧で有名な『摩周湖』”に次いで2番目に透明度の高い湖で、とても綺麗で穢れを知らぬ乙女のような湖でした。時間も夕暮れ近いせいか、訪れる観光客もまばらで、「なんなら説明をしてあげよか…」と言うタクシーの運ちゃんをタクシーに待たせておいて、私一人湖畔まで徒歩で向かい、湖畔に突き出した桟橋の上から『クッタラ湖』ぜぇ〜んぶに伝授をおこなう。私に出来ることはコレくらいだから、現在の私の持てる全能力を伝授してくる。

そして、日の暮れかかった山道を一目散で『カルルス温泉』へと向かうのであった。

予約してあった日本旅館に上がり、さっそくお目当ての“露天風呂”へ…。脱衣所から10メートルくらいしか離れていないのに、その距離を素っ裸で歩くのが寒くてたまらない…。
首まで湯船に浸かりながら、「よし!あのクッタラ湖(アイヌの神様)のやさしいエネルギーと、このカルルス温泉の柔らかいエネルギー、それに今宵の月明かりがあれば何とかエネルギーを作れそう…」と段々とその気になってくるのでした。
調子に乗って温泉にも伝授の真似事をやっていたら、露天風呂の岩場で足の裏を怪我してしまう…。やっぱり、深夜の月明かりまで待つ事にしよう…。

部屋に運ばれてきた夕食も済ませ、月見にちょうど良い頃合の時間までTV映画『猿の惑星』を観て時間を潰すが、夕食のビールも手伝ってか眠くて仕方ない…。ガマン、我慢…。

11時からの『佐太バージョンアップ』CDも済ませ、いざ露天風呂へ…。2連休というせいか、『登別温泉』も『カルルス温泉』もホテルというホテルは何処も満杯状態であったにも関わらず、私が露天風呂へ行く時は何故か誰も入っていないのである…。
まるでそれは、以前八木橋くんと『塩竃神社』へ二人っきりで参拝した時と同じように、「誰にも邪魔はさせないぞ!」と言わんばかりであった…。

湯船から今宵の月を探すが何処にも出ていない…。曇っているのだろうか?湯船からあがり、探そうとも思うのだが、湯に浸かっていない耳などはすでに冷たくなっているし、肩を湯から出すだけで寒さで身体がガタガタと震えてしまう…。
しかし、約束は約束。ゆらくんと彼女、そして潤いを必要としている人の為にもヤラネバ…。ガタガタと全身を震わせながら、やっと雨避けの為に作られている屋根の端っこの方にチラチラと綺麗に光りを放っている月を見出す。

そのやっと見つけた月は、ぼんやりと霞み、まさに私の望んでいた“おぼろ月”であった。もう一度意を決するかのように湯船に肩まで浸かりなおし、一気に飛び出て一心不乱に月のエネルギーを我が掌中にいただく…。
その瞬間私の心と身体は、柔らかくて優しい、しかも可憐で愛らしくて、縋り付くように、糸を引くように、もの悲しい(いったいどういうエネルギーなの…?)エネルギーに包まれるのを感じた。
「コレだ!」と、その月のエネルギーとカルルス温泉のエネルギー、そしてあとは私の経験から作り出したエネルギーと、ちょっと言葉じゃ言えないエネルギーをミックスして作ってみました。
どうかみなさん、八木橋くんとの検証が終われば、掲示板にまた一文字で書き込みますのでお試しください。

名付けて、『月下美人(女性用)』、『月光仮面(男性用)』ですが、男性用は『ケッコウ仮面』にしようかな…と思案中です。

翌日も快晴。
早朝一人っきりで露天風呂に浸かり、朝食も早々に済ませて、宿の目の前にある『薬師神社』と『霊泉龍珠観世音菩薩像』を参拝しようと表に出ると、なんと空からキラキラと光り輝くものが舞いながら落ちて来ている。

雪であった…。おそらくカルルスの初雪なのであろうか、恥ずかしそうに遠慮しながらも燦々と輝く太陽の光りを眩いほどに反射させながら、ユラユラとキラキラと空中を舞い降りていた。それは昨日のクッタラ湖(アイヌの神様)からの祝福のように私には思えてならなかった…。
「昨日はありがとう、また来てネ」って…。

手早く参拝を済ませ、カルルス温泉・登別温泉を後にする。
電車が『南千歳』に来た頃には、おそらく昨日の深夜にでも降り積もったのであろうか、地面が雪で白く塗り潰されていた。携帯の電池が無いので札幌に着き、公衆電話から八木橋くんに電話をかけ、エネルギーを作ったことを報告する。
そして、また『東急ハンズ』でお買い物をして、『陰陽師』の映画を観に行く。
私はどうして北海道でばかり映画を観ているのだろう…。(わかった!一人で時間を持て余しているからだ…。なぁ〜んだ…、ちょっぴり淋しい…)
と、慌しくも楽しく、そして淋しい、『北海道、ぶらり温泉一人旅』は、いとも簡単に終わってしまった。

高松に帰ると明日から始まるギッシリ詰った『W遠トリ』と『月契約W遠トリ』のスケジュール作成…。現実の世界に、たちまちの内に引き戻されてしまう。しかし、またいい旅が出来るように、一生懸命仕事しなくっちゃ…。

さて、次は11日(日)にPH会東京講習会だ。関東近辺のみなさん、「待っててネ!」って誰も期待していないか…。とにかく八木橋くんと二人で遊びに行きまぁ〜す。

2001・10・31 『悪人にしかヒーラーはできない理由

えぇ〜、以前我々が『ジコリのインタビュールーム』で話していた、「悪人にしかヒーラーはできない」と言う話について、数多くのお問い合わせがありましたので、一旦は『掲示板』に書き込みましたが、また尋ねられる可能性を考えて、こちらの『タマのひとり言』に移動させました。

以下の文章は、ある本に書いてあることを引用いたしました。こちらの方が私が自分の口で語るよりわかりやすいのではないかと考えたからです。
しかし、我々の考えが「全くこの通り」というわけでもありませんし、今後も同じ考え方、捕らえ方をしているという保障もございません。
ただひとつ言えるのは、『ヒーリングとは自分への鎮魂』という事でしょうか…。
どうぞ、こういう捕らえ方もあるという一例としてご参考になさってくださいませ。


言霊には必ず裏と表があります。
マガという言葉には、曲がっているという意味と同時に、動いているという意味もあります。
裏の意味は、『禍』で、表は勾玉のマガになるわけです。
どういうことかというと、まっすぐなエネルギーは動きません。
いわゆる渦巻きというか、ラセンになるからこそ、エネルギーが動くのです。そう考えていくと、曲がっていること自体は絶対的な悪ではなく、人間の成長の中で起きることだということがわかります。
これは神道では、『悪』の代わりに、『禍』(まが)とか『曲津』(まがつ)、『邪』という言い方をするからです。
善悪を方向性だととらえるのです。
単に身をかがめるより、ヨミガエリの方が実は結果的には、ステップアップできるのです。
一度失敗してダメになるどころか、正にも邪にも強くなって、さらに力を増して来るというのが古神道の考え方なのです。
「大悪党が改心すると大聖者になる」と言われるように、魂の大きい人が大事をなしとげるパワーがあるということです。


「だからどうした!」って訊かれると、困っちゃうんですがネ。

2001・10・30 『八木橋の部屋の解説

「玉川さん、解説よろしく…」と話の矛先をこちらに急に向けられても…。
「うぅぅぅ〜む…」。
何度読み返してもやはりわかりにくいので、せっかく面白い話だったので、なんとか解説してみます。

八木橋くんが『ねずみ』とか『うさぎ』と書いているのは、方位(十二支)のことで、北は『ねずみ』なのです。と言うことは、時計の針を見てもらうとわかりやすいのですが、上(12)から、『鼠(ね)』・『丑(うし)』・『寅(とら)』・『兎(う)』、と見ていくと、真東に『うさぎ』がくるのですネ。ちょうど短針では『3時』、長針では『15分』の所です。

彼の話では調整をお手伝いしてもらう神さんとしては、この北・東から来る神さんが一番使いやすいと言います。そして、そこから呼んでくる神さんは“瓢箪みたいな形をしている”と言うのです。
しかし本当は、その針の示す数字の間、たとえば『1・鼠』と『2・丑』の間とか、『2・丑』と『3・寅』の間とか、この場合は所謂『艮(うしとら)』の神ですネ。
神さんはその数字の間から来ると…。そして強力だと…。
よく『艮の金神様』とか言いますもんネ。

この方角(東北)を『鬼門』と呼び、太陽の昇る尊い方角、龍・鬼が通る道、“運気”が出入りする方位としているのも何か意味があるのかもしれませんネ。

私の話してることわかりますか?えっ?わからない…。
わからなくても、まぁ〜みなさんも一度試しに呼んでみてトリートメントを手伝ってもらってみる、或いはトリートメントしてみるというのは如何でしょうか?
“自分で試す”、それしか理解していただく方法はないのではと…。
なんせ書いている私も、よくわからないのですから…。

大黒屋さんが掲示板で、前田さんのお母様に試すように教えていただいた調整法も、足元に立つ、もう一人のイメージの自分とは、ひょっとしたら守護霊のことなのかもしれませんネ…?

えぇ〜っと、次は『穴』の話ですネ。

このへそ(穴)でエネルギーを感じるということは、山岸会長も「CD・MD等を耳で聴くより、へその上で回した方が感じる人もある」と、おっしゃっていたので、きっとその通りなのでしょう。八木橋くんが書いているように、唯一自分自身の目で確認できる穴が“へその穴”なので、それ故に意識が(エネルギーが)より濃く(強く)伝達されるのでしょうか?

調整でも、たとえば内臓の悪い人はおそらくその臓器に意識が届いていない、意識の薄い場所、或いは逆に「ココが悪いのではないか」と意識しすぎて、濃くなり過ぎた場所が悪くなっているように思います。この意識の程よいバランスが大事なのではないでしょうか。

みなさんも紙に「自分の肝臓」とか「自分の腎臓」とか文字で書いて、その臓器の窪みの上に切り取った『し』を張ってみてください。
そして、何らかの肉体からの反応をお試しくださいネ。

調整の時に、これらの穴を使う時の注意としては、いきなり敏感なへそから始めるのではなくて、なるべく意識の薄い部位から順番にエネルギーで調整していくのがコツではないのでしょうか。

『穴』に意識を向けると、意識が身体の中に流れ込むのではなくて、逆に外に広がっていくというか、解放されるような感覚を受けるかもしれません。そういう意味では『穴』は入口でもあり、出口でもあるのかもしれませんネ。
ひょっとすると、意識や魂は外に向かった方が良いのかもしれませんネ…。

何を書いているのか、自分でもサッパリわけのわからない玉川でした。

2001・10・23 澤田校長と関西支部の話、パート3

私達が何故いち早く「ETPに入会します」と掲示板に書き込んだのか?おわかりになりますでしょうか?しかも、何故わざわざ『堂々と…』と書いたのか?

私達はPH会も好きですし、と言っても大黒屋さんとも遊びたい。
“それなら両方行けばいいじゃん…”結論はそれだけなのです。
“わたしはPH会一筋ヨ!浮気はしない!」と言う人はそれでいいのです。

八木橋くんが『八木橋の部屋』で語っているように、我々にとってはTDIでもEPTでも何でもいいのです。他人にどのように見られようと、陰で何を言われようと自分が楽しければいいのです。

そこにいて、一緒に遊べる仲間がいて、しかも気持ちよい風を感じられれば…。
お腹いっぱい遊びたい”それだけなのです。

気が付いたら、いい風が吹いていた。“気持ち良さそうだから、その風に乗ってみようか”という気持ちになっただけなのです。
結果はわからないですよ。でも取り敢えずは乗ってみなけりゃ、その場に立ち止まっているだけじゃ、良い事も悪い事も何も始まらない(動かない)のだから…。
それだけなんです…。

ただ、どうせ行くのなら堂々と自分の意志で行きたい。
周りの状況を見ながら、周りの目を気にしながら様子を窺いながら、コソコソとはしたくは無いのです。

もし間違っていたら(わたしはそうじゃないという人には)ゴメンナサイね。
澤田校長のところへ行ってる人たちがPH講習会でコソコソしているのが私には以前から気になって仕方がなかった…。
「なんで隠すの…?そんな悪い事してるの?」と…。
20日・21日もMTLの学校があったようだけど、それにコソっと参加してた人達のバツの悪そうなこと…。もちろん内緒にしているし…。
そんなにコソコソしていて、いいエネルギーが出せるの?
そしてそんな態度で研鑚していて、果たして能力アップするのでしょうか?

澤田校長も素晴らしい能力者であり、山岸会長の意志の枝・葉かもしれないのに…。
だからこそ自信を持って欲しいのです。「私は澤田さんにこんなに素晴らしいエネルギー技術を教わっているのよ!」って、堂々と…。
そしていつかみんなで、それらの“技術交流会”や“エネ旅行”ができれば、こんなに素晴らしいことはないのに…。

これを『進化』と呼ぶのじゃないでしょうか?

人に訊かず、周りに惑わされず、堂々としていればいい…と、わたしは思います。

2001・10・19 『澤田校長と関西支部の話、パート2

10月18日の『八木橋の部屋』の解説を掲示板に書きましたが、みなさんの書き込みでドンドンと次のページへ押し出されるので、こちらに移動いたしました。
こちらを初めてご覧になる方は、まず『タマのひとり言(10月18日)』を読んで、次に『八木橋の部屋(10月18日)』を読んでから、こちらをお読みください。

今朝の『W遠トリ』の時に八木橋くんと、「どうして会長の側近と思われていた人達ばかり次々とやめていくのだろう…」という話になりました。
そして彼はその時にこんな話をしてくれたのでした。

「玉川さん、以前作家の三浦綾子さんが亡くなった時に、亡くなる数日前からこういう話をしきりに口走っていたそうです。“私が死んだら何も残らないの。死とは何かが集約されて後に残されるものではなくて、なにもなくなるものなの。私の意識や記憶は私の死と言う現実に残るのではなくて、私に関わっていた人達の中で広がるものなの。それがその方達を通して周りにドンドン拡散していくものなのよ。死は集約ではなくて拡散なの…”ここにヒントがあると思うんですけど…。」

「それって山岸会長が亡くなることで、会長の意志をこの会だけに残すのではなくて、会長に関わっていた人たちの意識の中で拡がり、その人たちを通して周りに拡散していくってことなの?」

「そうそう、だからこそ会長の側近と思われていた人達ほどその影響が強くて、現に一番の側近であった澤田さんが辞め、シンさんが辞め、仲眞さん…という順番でお辞めになっていくんじゃないですか?」

「えっ?それじゃぁ、みんなが辞めていったのは会長の意志に知らず知らずの内に従っていただけだという意味なの?」

「はい。でもそれはあくまでも可能性の話で…。もちろんそれだけではないとは思いますが、それが大きいのでは…と思うのですが…。どうですか?それを『進化』と呼ぶのじゃないでしょか?」

「そうか、ようするに会長は自分の意志を受け継いだ子供(仲間)達を通して、この素晴らしいエネルギーをもっと拡散させたかったんだネ。“子や孫の代まで伝えたい”って言ってたもんネ…」

「そうなんですよ。PH会だけじゃこの素晴らしいエネルギー技術は広がりきれない、しかしPH会はエネルギーに一般の人達が興味を持って参加される受け皿(入口)としては必要不可欠だから残しておきたい。それじゃぁ〜俺の意志を十分受け継いだ人たちに、この会を出る事でいろいろな可能性にチャレンジしてもらおうかっって思ったんじゃないですかねぇ〜?それには自分が生きている内はとうてい無理な話だから、その後は頼むよって…」

という話でした。

そうすると、“みんな、出て行った人も残った人も、山岸会長のご意志を知らずに受け継いだだけで、誰も悪者ではない”、という可能性になるという話だったのですが、『八木橋の部屋』では彼はエネルギーレベルの話として書いているので、伝わり難いのではと想像し、私が勝手にこちらに書き込みましたが、これでうまく伝わったでしょうか?

ただし、それは飛び出した時の意志の理由付けであって、もちろんその後のその方達のおこない一つで大きく起動が逸れて行く可能性もあることなのですが…。

実は、今日コレを書こうって二人でアレコレやっていたら、またまた不可思議な出来事が起きたのでした…。“あっ、山岸会長が来てる…”と二人とも感じましたから、まんざら間違ってはいないような気もするのですが…。

間違っていたらゴメンナサイ。。。

「最近ずっと山岸会長が僕のそばにいるのを感じるんです」と彼は今朝も話してくれました。

2001・10・18 『澤田校長と関西支部のはなし…

えぇ〜、みなさんもご存知のように、この度“PH会の関西支部が閉鎖された”と本部よりハガキが届きました。半年ほど前に澤田校長がやめられたばかりなのに「なぜ?」と思われた方がほとんどではないかと思います。

まぁ、そのおこないや結果の是非は別として、我々は敢えてこの話に首を突っ込むつもりもなかったのです。どちらの出来事も薄々とは感じていたことなので…。
しかし、今朝八木橋くんと話をしていて、

「玉川さん、このままじゃ会員さんは不安だろうし、ますます誤解を生むんじゃないのかなぁ〜。今だからこそ玉川さん、あの話を書いてくれませんか?PH会の為にも、そして澤田校長や仲眞理事の為にも…」と言われました。

「えぇ〜?あの話って何の話だっけ…?」と、とぼけたつもりだったのですが(私はあまりこういう面倒な話は苦手なので…)、また彼が丁寧に話してくれたので、“確かに一回はこういう話も書いた方がいいかもしれないな…”と思い、キーボードを打ち出したのですが、彼の語った内容がどうも文章にならないのです…。

内容としては、“何故、あの山岸会長一番の側近ともいえる澤田さんがPH会を飛び出したのか?”、そしてこれまた、“あんなに会長ベッタリだった仲眞理事がどうして関西支部での一周忌を目前にしてPH会と袂を分かったのか?”というエネルギーレベルでの話なのですが…。

しつこいようですが、あくまでこの話は『エネルギーレベル』での話であって、ドロドロとした双方の確執や、現実問題としての金銭的なこと(そういうことが、もしあればという意味ですが…)に関しては我々の感知するところではありませんし、またその辺のことは全く知りませんので、そのつもりで読んでくださいネ!

私も、内容はハッキリと頭に残っているし、理解もしているつもりなのですが、何故か指がキーボードを叩こうとしません…。
(これはお前の役割じゃないと言われているのかな?)

そこで、この話はやっぱり“言い出しっぺ”の八木橋くんにバトンタッチしたいと思います。
彼ならうまく書いてくれるものと信じています。

ただし、それを読んだみなさんは、“へぇ〜、そういうとらえ方もあるんだ…”程度に聞き流してもらえればいいですから…。
「だからどうした!」とか「それって本当ですか?」と訊ねられても、我々にもお答えのしようがありませんので…。

だって真実は、その人、その人、それぞれのものだって、いつか書きましたよネ…。

ただ、こういう視点で物事を捉えられれば、誰も恨んだり恨まれたりすることもなくなるのかな?っと思っていますが…。

それでは、『八木橋の部屋』の更新をお待ちくださいませ。

2001・10・17 高松にて 『職業としての調整師の難しさ

今日はちょっと職業としての調整師の難しさを書きます。

我々も一緒に『W調整』『W遠トリ』を始めて早1年以上になるのですが、最近こそありがたいことにコンスタンスに依頼が来るようになりましたが、最初はひどいものでした。

最初に去年の3月に札幌で『エネ遊び』を始めた時なんて、私は両親共に倒れて入院してるし、会社は多額の負債をかかえて潰れそうだし…。八木橋くんに至っては貯金通帳の残高が限りなく0に近い状態でした。だから『札幌エネ遊び』は本当は1回で打ち切るつもりだったのです。
しかし、その時に参加された会員さん達から、「次は何時やるんですか?」と訊ねられ、“どうせ札幌に来るのなら…”と苦肉の策で始めた『W調整』でした。が…、それも1回5千円しかいただかないわけですから、一人2千5百円づつ…。20人やっても5万円づつ…。

私は完全に赤字…、なんせ札幌へ行く旅費だけでも通常料金なら往復で7万円ちかくかかるのですから、それプラスホテル代と宴会代…、やればやるだけそれが膨らんでいくばかり。八木橋くんも旅費・宿泊費でトントンで利益無し、夜ちょっと飲んだらすぐに足が出るという状態でした。

そして考えついたのが、『W遠トリ』でした。
これを始めるにあたっては随分と勇気が必要でした。だってそれまで誰も『遠隔』だけで調整している人がいなかったのですから、1クール3回で依頼を受けるとかのマニュアルもなければ、やる方法すらわからない。しかし、北海道と四国という離れた距離で一緒に何かを始めるにはこれほど条件の良い調整法も…、というより結局はこれしか我々には無かったのですネ。

ちょうどプロになる前に私はアビエルトの『この指とまれ』で、“誰か遠トリやらせてください”って企画をそれまでに何度か経験していましたので、その経験がここでは大いに役に立ちました。やっぱりこの世の中、まったく無駄な事ってないですネ。いま考えると、まるで今日の日の為にあの企画をやらされていたような気もするのですが…。

しかし、勇気を奮ってイザ始めてみると、待てども待てども全然依頼が入ってこない。その頃はアビエルトの『調整法体験会』に記事を載せても、せいぜい月に15人程度の依頼しかきませんでした。そこで私はやることがないから、色々な所に出かけて様々な注文を取ってくるのです。お店に客が入るように“店のエネ変え”とか、“ペットの遠トリ”とか、“行方不明者探し”とか、“憑きもの落とし”等々本当にいろいろな依頼を片っ端から取りました。
それも今では懐かしい思い出ですが…。

こうやってコンスタントに依頼がきて、『W遠トリ』をこなすようになった今でも、やはり明日の事はわからないのです。今月は依頼が多かったと安心してはいられないのです。来月は0かもしれない…。それくらい、このエネルギーの調整だけで食べていくという事は非常に難しいことだと痛感しています。

それとこんな不思議な事もあるのです。
たとえば今年の8月を例にあげると、ちょうどこの月は私が函館でこのHP作成の為奮闘していた月で、こういう何か別にやらなければいけない出来事等が持ち上がると、それが終了するまでは不思議な事に依頼が全く入ってこないのです。結局その8月は依頼者13人という普段の○分の1の人数。我々の『W遠トリ』始まって以来の人数の少なさでした。これでは食べてはいけませんよねぇ〜。

今回の私のHPフリーズ宣言後も、まったく依頼が来なくなりました。ところが解凍した途端にドンドン依頼が入ってくるのです。『しおがま神社参拝』の時もそうでした…。何故だかはわかりませんが、どうもこの世界はそういう約束事になっているようです。

八木橋くんは最初に東京で会った時に、「玉川さん、僕はこのエネルギーの学校を北海道に作りたい。そしていろいろな人にエネルギー技術を教えたいんだ」と言っていました。もちろん私もやってみたい。しかし、上記の通りにそれで食べていくのは至難のわざなのです。能力がありエネルギーを出せるという事と、エネルギーで病を癒せるという事は全然違うことで、しかもエネルギーが出せて人を癒せても、お客がつく(繁盛する)とは限らないのです。

やはり調整師として食べていくには、まず能力があり、そのエネルギーで病を癒せて、しかも依頼者に人気がある(信望が厚い)という三拍子が揃っていなければ無理です。
(別に我々がそうだと言っているつもりはありませんので、誤解なきよう…)

だからエネルギーで食べていける調整師(ヒーラー)を作る学校というのは実際には不可能なのです。技術は伝えられても、そこから先は本人の問題になってくるのです。そりゃぁ卒業後に自分のお客さんを生徒に回してくれるというのならば別ですがネ…。

最近、八木橋くんとこんな話をしました。
「玉川さん、僕は最近、熟年・定年退職者限定(55才以上)の学校を作りたいなぁって思ってるんです。年取ってから趣味としてボランティアのつもりで他人を癒す。僕の所へ来る患者さんで、そういうことを望んでいる人が意外と多いんですよ。それを職業と考えないのなら教えられる。僕の技術も全部渡せるし…。若くて、しかも現在の会社を辞めてまでこの世界に打ち込もう、家族をこれで喰わせていこうって人達に学校を作って教えるのは酷く残酷な気がしています。卒業後の食べていく事に関しては、僕も責任もてないもの…」

「あっ、それいいねぇ〜。一家に一人、エネ老人!そういうエネルギーで病気を癒せる老人がいたら、今のようにお年よりを邪魔者あつかいしたり、汚い物のようにはあつかわないもんネ。子供や孫とかがちょっとか体調が悪いって時には“それじゃぁお爺ちゃんにちょっと診てもらいなさい”ってことになれば、家の中でも大きい顔していられるもんネ」

「いいっしょ、コレ…」

「うん。うん、それいい…。やろうよ」

なんてことも考えています。
もし実現したら、ぜひご入学くださいネ!みなさん、老後に夢を持ちましょう。

いろいろな事がいっぱい起きている今日この頃ですので、何が起きて何が実現するかもしれません。
我々は本当に何処へ行くのでしょうか?

2001・10・16 高松にて 『電話…

我々は『W遠トリ』などという遠隔での調整をメインにおこなっているので、その対応はほとんどが電話によるものなのです。ところが何故か私には電話は少ない。それに反して八木橋くんはその回数の多いこと…。二人で遠トリの打ち合わせをしていても、いつも後ろで電話のベルが鳴っています。“気の毒に…”と今までは思っていました。

しかし、ここのところ何故か私にもよくかかってくるようになりました。それも依頼ではなくて、ややこしい話や愚痴・相談・苦情ばかりで…。
“何故?”と思い、今朝の『W遠トリ』の時に八木橋くんに話しました。すると彼の反応は意外なものでした。

「イヤぁ〜、それはそれはオメデトウございます。玉川さん、凄いアップしていますよ。もうそこまで来たとは…、僕は玉川さんが羨ましいですよ。僕もウカウカしていられないなぁ〜」と言うのです。
私にはわけがわからず、「えっ?何のことそれ…」と聞きかえしました。

「僕も一時期はそうだったんです。“どうしてよりによってこんな時に…”とか、“又電話かぁ〜”とか…。でも最近それは間違っている事に気がついたんです。“あぁ〜、また電話をかけて貰えた、ありがたいなぁ〜”って思えるような気持ちにやっとなれたんです。だから最近ではお客さんも途切れる事がなくなっちゃいました。僕がこれまでかかって、やっとたどり着いた道・境地を玉川さんはいま一足飛びに追いついて来ようとしている。だから羨ましいと言ったんです」

「???…、えっ?何の事だかわかんないヨ!」

「だからね。玉川さんに今そういう電話がかかってくるということは、玉川さんにも“早くそれに気づきなさい”と教えて貰っているということなんです。しかも『佐太・出雲』から帰ってからの玉川さんはほとんどそういう状態でしょ…。何かが玉川さんに気づかせようとしているって僕は感じているし、実際一緒に『W遠トリ』をやっているから、いま玉川さんがどれくらい急速に能力アップしているかはわかりますからね…。僕の時はそれがなかったから時間がかかったけど、玉川さんはここ一週間くらいの間に次々と起こっているもの…。だからそういう玉川さんが僕は羨ましいですよ」

「そうか…、私にかかってきている電話にもそういう意味があったのか…。それじゃぁ電話をかけてきた人達は、知らず知らずの間にそういう役目を担っているわけだ…。それならば尚更その人たちに感謝しなくっちゃね」

「そうですよ、それそれ。感謝ですよ。僕達今までクライアントさんには、“今日まで無事に生きてこられた自分の身体に感謝しなさい”とか、“せめて寝る前だけでも自分に、家族にありがとうって言いましょう”って言い続けてきたけど、自分達にこそ一番それが必要だったのではないかと気がついたんです。だからせめて最初に電話を取る時には“あぁ〜電話がかかってきた。ありがたいなぁ〜”って思うようにしようと決めたんです。そうすれば必ず相手に感謝のエネルギーが伝わりますから…。エネルギーは先に伝わるから、普段からそう思っていれば、相手が電話をかけてこようと思っただけで相手に既にエネルギーが行っちゃってるんです。だから最近では僕に電話をかけようと思ったら調子が良くなったって人が多いですヨ。もっともみんながそうなったら、僕ら仕事が無くなっちゃいますけどネ…」

「うん、そうだね。それは困る…。でも、まずは感謝だね!」

「ところで何故こんなにも急速に能力アップしていくかわかりますか。それはきっと大黒屋さんが今しきりに玉川さんの掲示板へ書き込みをしてくれているでしょ。それに僕達は答えますよね。この言葉のやり取りが大事なことで、あの掲示板で答えた人達は何故かみんなアップしていますよ。本人が気がついているかどうかは別として…。だから僕達二人で“みなさんも書き込んでくださいね”って何度も呼びかけてるのに…。」

「そうそう、書き込む人は決まっちゃってるよね。どうして書かないんだろう?答えなんかないのに…。高齢化社会の話だって、“増えるのは紙オムツです”でも何でもいいのに…。身体のレスポンスだって何も無かった人は“私なにも感じません”って正直に書けばいいのに…。大黒屋さんはそれを待ってると思うんだけどなぁ〜。大黒屋さんは“その答えは違います”とか、“あなたは研鑚不足です”なんて絶対に言わないと思うよ」

「特に調整師にとっては最近の大黒屋さんの掲示板への書き込みがどれほど役に立つ内容かわかるはずなんだけどなぁ〜。どうして誰も書かないのかなぁ〜?やっぱり調整師の場合は一応はプロだから、“わかりません”とか、変な書き込みしたらお客が来なくなるって思うっちゃうのかなぁ…?」

「それにみんなにしたって、自分から進んで恥はかきたくはないという気持ちもわかるんだけどね…」

「でも、これが一番の能力アップの近道なんだけどなぁ〜…。あっ、そうだ玉川さん。このことHPに書いてください。僕は書くの苦手だから…。玉川さん書いて…。そして僕らはいつか、あの大黒屋さんすら追い抜いて、突き抜けていくつもりですって…」

「えぇ〜、またまた〜…。どうしていつも俺が書くことになるのぉ〜…」

「そりゃぁ〜、玉川さんの文章にはエネルギーが入ってるから…」

「じゃぁ仕方ないか…」

と言う経緯で今回は『タマのひとり言』を書いています。
大黒屋さんとて、いつまで書き込みを続けていただけるのかは私にはわかりません。だからこそ、今みなさんにも書き込んで欲しいのです。身体のレスポンスと直感の正直な答えを…。
それは何でもいいんです。頭じゃなくて仙骨で考えましょう。
「仙骨でなんか考えられないヨ」でもいいのです。
とにかく今書き込むことが大事なのですから…。

これが能力アップへの近道だと思うのですが、いかがでしょうか。
(私だって、こんな事勝手に書いちゃって、「それは違うゾ!」って大黒屋さんに叱られないか不安な気持ちでいっぱいなんですから…)

※たった今、PH会の関西支部が本部から抜けた?という情報が電話で入ってきました。
よりによって、会長の一周忌を6日後に控えているというのに…。
本当にPH会はこれからどうなっていくのでしょうか?
そして山岸前会長は、この一連の出来事をどう感じているのでしょうか?

掲示板に書き込んで下さいと書きましたが、この件についての掲示板への書き込みはご遠慮ください。
私にもわかりませんし、お答えできませんので…。


2001・9・30 函館にて 『八木橋邸にて…

今日、12時55分発の『スーパー北斗』で札幌に向かいます。長かった今回の北海道滞在も後残すところ2日になりました。バニラは元気にしているのだろうか…?

27日に、アビエルト用に書いた体験談『あの風に訊け!』をHP用に加筆し終へ、クタクタになった私は、また前回の函館滞在時同様に映画館へ通っていました。28日には宿泊しているホテルのすぐそばにある、客席73席のこじんまりとした函館市民映画館『シネマ・アイリス』へ行き、昼間に『ザ・スコア』を見、そして夜の最終上映で『ヤマカシ』を見ました。
何故か体験談を書き終えた後は、無性に映画が見たくなるのです…。きっと頭の中から活字を追い払いたいのだろうと私は思っています。だって、体験談を書き終えた夜は、ベッドに横になってもしばらくは頭の中で活字が飛び交い、それが五月蝿くて眠れないくらいですから…。

函館にいるというのに八木橋君に会うこともなく体験談を書きつづける日々…。今週も水曜日の『ヒーリング・サロンひまわり』さんでのTDE勉強会の時に一回会っただけでした。それでも『W遠トリ』の方は、日曜日以外は毎朝、毎晩、八木橋君に電話をかけて休むことなく行ってはいるのですがね。“恋人同士でもないのに、こんなに毎日電話するなんて…”と時々考えたりすることもあります…。“女性にもこれくらいまめに電話していればなぁ〜…”、と過去を振り返り反省することも…。

それはさておき、木曜朝の『W遠トリ』の時に八木橋君から、「玉川さん…、うちの子供らが、“どうしてタマちゃん函館にいるのに遊びにこないのぉ〜…?”って言ってましたよ」と聞かされ、急に八木橋君ちの3人の子供らの顔が見たくなりました。

昨日は、函館のPH会員さんのお母様の引越しを手伝いに行く約束をしていたのですが、その場所がうまい具合に八木橋邸のすぐ近くだったものですから、途中1時間ほど抜け出して、タクシーをとばして遊びに行ってきました。

タクシーを降りようとすると一番上のお兄ちゃん、“イっちゃん(小学1年生)”がタクシーまで迎えに来てくれて、手をつないでお家に招き入れてくれました。玄関を入ると今度は一番下の男の子“アオイくん(保育園児)”が、「あぁぁ〜…、タ、タマちゃんだぁ〜…」と恥ずかしそうに迎えてくれるのでした。その声を聞きつけて今度は真中のお姉ちゃん“エミリちゃん(幼稚園児)”の登場です。エミリちゃんは私の大ファンだそうなのですが、私を見るといつも「たぁ〜まちゃん…。チンチンプリプリ!」と、元気に腰を振り振り近づいてくるのです…。そして八木橋ご夫妻がにこやかに最後に迎え入れてくれるのでした。

この仲のいい5人家族を見ていると、愛犬バニラはいるものの、いい年をして一人暮らしをしている自分がなんだか寂しい人間のように思えて、いつも侘しぃ〜くなるのです…。

私にも実は“イっちゃん”より一つ年上の小学2年生になる息子がいて、1歳の時に別れたまま6年間も会っていませんでした。というよりは音信不通で、会わせて貰えなかったのですが…。もちろん既に名字は変わっています。
八木橋君は、そんな私の身の上を知っており、「玉川さん、家にくると子供のこと思い出して…、会いたくなるでしょ…。でも、きっとそう思っていれば近いうちに会えますよ…きっと…」と、以前言っていました。不思議なもので、本当に今年の3月にそれは実現したのですが…。

話を元に戻して…、「タマちゃんて、やっぱウルトラマン・ティガに似てるネ!」と何度も言われ、「そう…?ところでウルトラマン・ティガってどういうの?」と尋ねたばかりに、「じゃぁ、見せてあげるぅ〜」と、結局私は八木橋家滞在1時間の大半を「ウルトラマン大全集」みたいなVTRを見せられる羽目になるのでした…。
1時間後にタクシーを予約していたので、ホントに顔を見せるだけのような短い時間しか過ごせませんでしたが…、でも楽しかったよ!八木橋家のみんなありがとうネ!

引越しを手伝った会員さん親子に夕食を御馳走になり、函館に戻りまた本日特別先行上映の『トゥームレイダー』を見て帰る。
そんな時間を過ごしていた今回の函館滞在でした。11月には、今度は神社参りで来るつもりです。

明日からはインターネットに接続できませんので、HPを覗けませんが、みなさんその間もよろしくお願いします。

 八木橋君ちの子供たちの要望で、今回函館入りした日にJR北海道のキャンペーンで、駅のホームに来ていた『ドラえもん』と一緒に写した写真を早く載せて欲しいと頼まれましたので、『八木橋の部屋』に貼り付けました。ぜひご覧くださいネ。


2001・9・29 函館にて

『W調整in札幌』が9月23日に終わりました。
今回は20名もご予約をいただき、そして調整後の飲み会にも16名もの方が参加されました。

今回調整をお手伝いいただいた大阪の前田調整師、仙台の浜岡調整師、いつも場所を無料提供し協力していただいた岩佐さん、そしてご依頼いただいたみなさん、本当にありがとうございました。
みなさんのことは、我々決してわすれません…。

          

これで我々の1年半に渡る札幌での活動は、いちおう終了です。
去年の3月に『エネ遊びin札幌』を行った時は、何をどう進めれば良いのかもわからず、右往左往しながら必死で計画を練りました。そして、気がつけばこんなにも月日が流れていました…。

私のHPは、『ヒーリング・オフィスDTD』という名前の割には、他の調整師の方のHPに比べて「宣伝臭くない」、と言うよりも「もっとコマーシャルすれば…」と、たくさんの感想をいただきました。
私は本来、宣伝の為にHPを開設した訳ではないので仕方の無いことなのですが…。

それでは何の為にHPを開設したのか?
それは我々、玉川と八木橋の生き方、その軌跡を残して起きたかったのです。
彼は私の知る限りでは、この業界でも断トツの稀に見る『天才』です。どのような有名な能力者や坊さん、霊能者等に合わされても、彼の前ではまるで昔からの親友か、子供のようになってしまうのです。それを私は実際にこの目で見、また彼からも数多く聞かされました。

しかし、その天才と呼ばれる彼がどれだけ影で目に見えぬ努力を重ねているか…。それを知っているのも彼のご家族以外では、私だけかもしれませんネ。

そんな彼だから、私はこの逸材を北海道の片隅だけで埋ずもらせたくなかった。彼を『北海道の天才』『函館の神さま』と呼ばれるだけの人生では終わらせたくなかった。私は彼を、日本の中央のスポットライトの当たる場所に引っぱり出したかった。そして、それこそが私の使命なのだと信じて今日までプロデュースもし、頑張ってきたつもりです。

しかし、決して私も『シャーロック・ホームズ』に出てくる『ワトソン』の役だけではないのだと…。出来れば我々の関係は、『大国主命』と『少彦名命』でありたいと自分に言い聞かせながら…、その為にも、彼の足手まといにならぬようにそれなりの努力はおこなってきたつもりです。

その彼も今や、おそらくPH会では名前を知らない人の方が少ないのではないかと思っています。

だから私の最初の役割はこれで終了した訳です。日本でなら、もう私がいなくても彼は有名になっていくだろうと信じています。

次なる私の目標は、以前このコーナーにも書きましたが、彼と一緒に海外に出て行くこと(機が熟し、彼のご家族の許しが出ればの話ですが…)。そして二人が世界でどれだけ通用するのかを知りたい…。そしてこのエネルギー技術をアカデミックなものとして日本に逆輸入したい。

その為にも、我々が札幌で行ってきた1年半の調整法や、エネルギー技術を伝承しておきたいと常々考えていました。実際に目の前で一緒に調整を行うのが一番いいのですが、もうその場所もなくなってしまいました。だからせめて我々がこれまで行ってきた『W調整』の風景や失敗談、成果等を文章として残しておきたくて…。この『タマのひとり言』に書こうと思っていたのですが、随分と長文になりそうなので『体験談番外編』として書くことに致しました。

幸いにも10月は我々も予定らしい予定がないので、ゆっくりと、ひと月かけて書いていくつもりです。

果たしてどのようなものが書けるのやら…。
どうか、次回の『番外編4』をお楽しみにお待ちください。

2001・9・12 高松にて

アメリカが同時多発テロで随分とひどいことになりました。
「どうして?よりによってこの時期に・・」と感じたのは八木橋くんも同様のようでした。

『掲示板』にも書きましたが、ニューヨーク行きの話すら出ていない7月の大阪講習会後の『三千円の会』で、大黒屋さんに「私の夢は外国、特にアメリカへ八木橋くんと二人で渡り、このTDEのエネルギーで一人でも多くの人を癒し、“不治の病”といわれる病気を癒すことで実証を積み上げ、いつか米国の研究機関に客員として招かれて、このエネルギーを徹底的に科学的分析をしてもらうことと、“現代の漢方薬”として科学的になんだかわからないが確かに“不治の病”が癒えるエネルギーが存在するから使っちゃおう・・・。しかもこの能力は他人に伝授する事ができるという証をたてて日本に逆輸入したいんです。このままいくら日本でガンバッタところで、日本じゃ所詮“拝み屋さん”あつかいで終わってしまうんじゃないでしょうか・・・。それが口惜しい・・」と、お話ししました。

その時の大黒屋さんの答えは、「まだ早い。あなたたちはもっと日本でやるべき事が沢山あるでしょ。今はそれを一つ一つやりなさい。アメリカには何時か行けるから。その時はイヤでも自然と周りの環境自体(流れ)がそうなっているから、焦りなさんな。とにかく、今はまだ早い。」と言われました。

そんな折、思いがけずに転がり込んできた渡米の話し、しかも旅費・宿泊先方持ち・・・。こんなこと『TDE調整師協会』はじまって以来初めての話しではないのでしょうか?二人とも「待ってました!」とばかり飛びついたのですが、結果はこうなってしまいました。やはり大黒屋さんの言う通りなのでしょうネ。我々にはこの日本でやるべき事がまだ残されているんだ・・・。確かに少し焦っていたのかも知れませんネ。

『出雲・佐太』参拝ツアー後の“飲み会”で大黒屋さんが「日本は特別な国です。世界中の有名なヒーラー達はみな日本に生まれなかった事を大変悔いています。そして次ぎに生まれ変る時には是非日本に生まれ変わりたいと願っているが、たいていは地球以外の星で生まれ変わるんです。だからこの地球に生まれて来たこと自体が大変稀な確率であり、その中でも特に日本に生まれてくる確率はおそらく1%以下、そう奇跡に近いのです。だからあなた達はこの日本に生まれただけでも感謝しなくてはいけない。そして日本に生まれた事の意味を知る必要があるのです。あなた達二人なら私が成し得なかった、この銀河系の外まで行ける可能性があるんだよ。是非そこに到達して欲しい。そしてその時には、私にその素晴らしい世界(エネルギー)の話とその方法を教えてね」と話してくださいました。

そう言えば、日本がおかしくなってきたのも外国、外国とありがたがって、すぐにアメリカの真似をしているからのような気がします。日本には他の国にない素晴らしい文明・文化・歴史があったはずです。まずは日本の国を癒し、そしてそのことが世界中を癒すことにつながっていくのだと今回はつくづく感じました。
アメリカへ行く日も、そう遠い先の話ではないような気もするから・・・、とにかく今は日本でやれることを全部やってみようと、再び視点を日本に戻してメラメラと燃え上がる玉川でした。

2001・8・30 高松にて

ブロバイダへの転送も昨日ようやく終わり、いちおう開設できたのですが、その途端に今度は訂正個所を見つけてしまって修正中です。
掲示板も動きません。

そんなこんなでもたついていたら現在ニューヨークに住む『月契約W遠トリ』の依頼
者の方から昨日こんな電話を頂きました。
「旅費・宿泊費はこちらで持ちますから、是非お二人でニューヨークに来て直接『W調整』をやってもらえないだろうか?」と・・・・・・。

八木橋くんは既にその日の朝に知らされていたらしく、電話をかけると「行きましょう」と簡単に言うし・・・。
私は海外旅行はたくさんしたけど、全て“南洋の島”ばかりなので都会は苦手・・・・。
まして、“ヘビースモーカー”だし、みんなピストル持ってるし、どうしよう・・・。

でも、我々が次ぎに望んでいたのは海外でTDEを広めること。
そして、TDEを“アカデミックなもの・メジャーなもの”として日本に逆輸入すること。
それが私の“夢”です。
その第一歩として、『清水の舞台』から飛び降りたつもりで、急遽行く事に決定しました。

9月21日札幌入り、23日に『W調整』、24日函館入り、26日『TDE勉強会in函館』
29日札幌入り、10月2日千歳から成田経由でニューヨークへ・・・。
10月9日帰国(大阪泊)。10月10日帰省。

またまた、ながぁ〜い旅が始まってしまう。
ん〜っと、今度は19泊20日か、「トホホ・・・」。
バニラが怒るだろうなぁ〜・・・・。
                                          
2001・8・24 函館にて

大型台風11号の為に函館から帰れなくなってしまったわたし・・・。
22日(水)に帰る予定が翌23・24日は今度は飛行機のチケットが満席で取れず、結局帰るのは明日、25日(土)になってしまいました・・・。
3日間も足止めをくったわたしは、お蔭で22日は『千と千尋の神隠し』、23日は『ジュラシック・パークV』、そして今日25日は『猿の惑星』と、まとめて3本も映画を観る羽目になってしまいました。
まぁ〜、前から観たい映画ばかりだったからいいか・・・。

※ HPは完成したものの、今度はプロバイダに“転送”できません・・・。いったい、いつになったら開設できるやら・・・。
いましばらくお待ちくださいませ。。。

                                           
2001・8・21 函館にて

今回、このHP開設作業の為に連日30度を越える猛暑の四国から盆明けの16日に逃げ出して、避暑を兼ねて協力者のいる函館にやって来ました。しかし函館の気候は想像していたよりも大変寒くて、最高気温34度という高松からやって来た私は、気温19度という函館の寒さに震え上がるのでした。

連日連夜のHP作成作業、朝から夜中の2時3時まで行なうのですが、ショートパンツにTシャツ姿の私のヒザ頭や太ももは冷え切ってしまい、おまけに寒さの為か久々に腰痛まで出る始末・・・。
函館のPH会員の友人であり、このHPのデザイン・イラスト等を担当してくれたA・Hasegawaさんの力強い協力を得て、毎日ケンカしながらもやっとなんとか開設することができました。

みなさんに気に入ってもらえると嬉しいのですが・・・。

このHP作成の為に、寝食を忘れて協力してくれたA・Hasegawaさんに一言お礼を、「本当にありがとう!」
そして、最後にこの私のHPを訪問して下さったみなさんにも心から感謝いたしております。

※ やっと全て終わり、「ホッ」として明日高松に帰る予定が、台風の為に当分帰れそうにもありません・・・、「トホホ・・・」。

                                           

『タマのひとり言』
2001年12月30日〜2002年3月14日迄

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Last Update : 2001/12/30