太平洋戦争での徴傭
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昭和17年12月30日、八郎平は、太平洋戦争に従事すべく、第1若松丸乗り組のまま海軍に徴傭され、横須賀艦船部によって第11航空艦隊司令部配属が命じられた。
八郎平は、家に帰る暇がないとして、いったん勤務先の宇和島から直接横須賀に出頭したが、横須賀港の雰囲気や、配属先がラバウルであることを考えてのことであろうか、妻ハルキに横須賀まで面会に来るよう連絡してきた。
連絡を受けたハルキは、上は12歳、下は生後2ヶ月足らず、4人の子供を抱えては、とても横須賀まで行くことはできない。と、やむを得ず断った。
これを聞いた軍の特別の配慮であろうか、八郎平は、年の明けた1月9日夜、伊方へ帰省している。
そして、翌10日1日間だけ滞在し、11日に伊方を出て、今治尾道航路欠航のため、今治に1泊、12日朝今治を出て13日早朝横須賀到着、午前9時、軍に出頭している。
これが、八郎平最後の帰省となった。
八郎平は、この最後の帰省から横須賀に帰任した直後、次のような手紙をよこしている。
先般突然帰宅御迷惑を掛けました。
その後 お前元気か。
帰宅毎に 酒に溢れて前後不覚。今度の出発は又格別、如何様にして家を出たやら 一寸も覚えて居らない。多分皆様に御世話になった事と想います。
充分近隣の様子も聞き、自分も語りたき件多々之有るも、残念暇なく元気で活動、郷家で休養の暇なき様に実際過ごせるのが、この上なき幸福です。
郷家で子供達の顔を見ると猶一層頑張らなければならなき様になりました。
決して故郷の皆様には敗けなく、向後拾年間は懸命頑張る。
先ず、何と云っても元気、敬神崇祖、神仏の加護を得、総ては天命。何事も小生のことは、心配あるな。
若松丸乗船当時2ヶ月位は、あまりにも機関の調子悪く 愈々退社をと一時は思うも、努力のお蔭、お前達の助力で進水後拾年間、愈不良なりし機関が、現在では好成績を挙げ会社の方でも人気沢山、兄上達に自慢をと想うも それも忘れてきました。
学ならざるとも 人には敗けなく、お前は子供を善導養育を頼む。
一難去って又一難。今度は、支那事変と異なり大敵を向こうに 太平洋を遠征です。軍港内の様子を郷家の皆様に見せたき様に思います。何事も心配あるな、小生のことは。
隆子の運動会の様子を聞き、誠に嬉しく、もう酒も禁と思うも、これは自分には出来ずお許し下され。隆子のことを思うとき、一矩達は如何に嬉しきことと思います。お前も姉上達に敗けなき様。
一寸の帰宅で、100円の金が横須賀着で4円余りました。お前の方は、如何ですか。50円位は消費ですか。
帰船にて覚えだしたが、ミサヲ様に餞別を貰った様に思う故 宜敷頼む。
次ぎに隣り西川君の名を通知下され。繁ヒサは如何だ。戦争を恐れぬようなれば、自分の方に乗り組み出来ると伝えて見よ。戦争故あまりすすめても、此の点よく思考。
帰途、風波激しく、今治尾道連絡欠航のため、今治に1泊、12日午前8時50分今治発、12時40分尾道発の列車に乗車。13日午前5時40分横須賀着。9時、軍に出頭出来ました。先ず安心 母にも伝えて下され。
横須賀出帆は、23日頃と思います。
13日18時、阿部竹藤様より「一六クセンテイニ(キクチヨシヲ)オルメンカイタノム」と電信戴き、早速14日、参謀本部に行き、調査なすも投錨位置不明につき、明朝、港務部に行き調査の考えで居ります。何様にも軍港内の広いのと、各艦船が沢山で思うように行かず。
送金少けなきと云って、小生には手紙が1本も来ないのだと、皆が笑っていけない。如何なる事か、まだ1本も手紙は受け取ってはいない。暇になれば、出帆までに速達で願いますよ。ハハハ……
軍に来れば、酒もビールもあるよ。故郷の人には頼まず、何事も注意。
元気で、元気でたのむよ。
次にボーナス金高通知下され。
皆様に宜敷願います。達者を祈る。
1月14日 22時書
ハルキ殿
八 平 印
仲々帰船後多忙です。
徴傭された第1若松丸は、もともと若松汽船(株)の所有であったが、昭和17年3月、若松汽船(株)が宇和島運輸(株)に合併されたので、徴傭当時は、宇和島運輸(株)の社有船となっていた。
第1若松丸の要目は次の通りである。
・船舶番号 | 37367 |
・信号符号 | JKHF |
・船級構造 | 二級鋼船 |
・総トン数 | 232.0 |
・純トン数 | 112.0 |
・長さ(m) | 38.1 |
・幅 (m) | 7.1 |
・深さ(m) | 3.1 |
・速 力 | 12ノット |
・機 関 | ディーゼル |
・公称馬力 | 210 |
・造船年月 | 昭和6年11月 |
・造船場所 | 相生 |
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