八郎平ラバウルへ


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 昭和18年3月14日、八郎平は、第1若松丸乗り組のまま第11航空艦隊司令部に着任している。
 この日付は、八郎平が初めてラバウルに到着した日と考えて良いのではなかろうか。
 先の八郎平の書簡では、横須賀出港が1月23日頃の予定とされているから、予定通り出航したと仮定し、着任の日に入港したとすれば、横須賀・ラバウル間の航海に51日間を要したことになる。
 第1若松丸の速力は、12ノットとされているが、これは全速と考えられ、普通速は10ノット程度と思われる。
 そうすると、1ノットは、1時間に1浬(1.852km)であるから、1日に444.5キロメートル進むこととなり、日本・ラバウル間が4,700キロメートルとされていることから、11日間で良いこととなる。しかし、この計算は、直線コースで、しかも、休み無く走った場合の算術計算である。
 第1若松丸が沈没後に伊方を訪れた乗組員は、帰国に約1ヶ月要したと言っていたそうである。もちろん所要日数は、船足に依存するわけで、船団を組む場合は、最も遅い船の船足に揃えることとなるわけだから、所要日数の推定は容易でない。途中の寄港地の数と滞在日数にも左右される。
 山口高氏は、著書「ラバウル最後の航空隊」の中で、昭和18年10月25日横須賀港を出港し、途中、トラック島で5日間程度停泊し、昭和18年12月6日ラバウル港に達した。と、記述されている。この場合、トラック島での停泊を含め、43日間かかったこととなる。
 いずれにしても、第1若松丸の12ノットという速度は、かなり遅い船足だから、51日間という所要日数は、とんでもない数字ではないようにも思えるし、八郎平の書簡にある1月23日の出港予定が、1週間程度遅延したのかもしれない。

 ラバウルに到着した八郎平と第1若松丸は、どこら辺りをどの程度航海したのであろうか。探し得た記録は、次の3件であった。
□ 昭和18年4月22日午後2時00分ラバウル発。
  同24日午前9時30分 ショートランド着。
   船 団  宇治川丸、拓栄丸、よりひめ丸、第1若松丸、以上4隻。
   護 衛 第30号駆潜艇
   安着。うち第1若松丸は、 ブカ港止まりである。
□ 昭和18年5月15日午後4時00分ラバウル発。
  同17日午前10時30分ショートランド着。
   船 団  第1若松丸、住吉丸、協成丸、神徳丸、以上四隻。
   護 衛  第30号駆潜艇
   第1若松丸と住吉丸は、ブカ向け、他の2隻はショートランド向け、共に安着。
□ 昭和18年6月11日、第1若松丸が コロンバンガラ島向け増強輸送に従事。
   輸送人員及び物件については、第8艦隊戦時日誌戦闘詳報に「第11航空艦隊所報通」とあるだけで内容不詳。航空機材又は設営機材等と推定される。(「航空部隊」を輸送と明記した文献もある。)
   この輸送の記録には、発地の記載が無いが、コロンバンガラ輸送の他の船舶の状況から見て、 ブインと考えられる。

 徴傭船の輸送の任務には、占領地域内輸送と作戦地向け輸送に大別されると云う。4月と5月の2件は占領地域内輸送であり、6月の1件が作戦地向け輸送と云うこととなる。もちろん、作戦地向け輸送の方が危険度は大きいわけである。
 第1若松丸の航跡は、私の目に留まった記録がこの3件というだけで、これで全てとは言えない。八郎平の最期を見取った人から聞いた話として、ハルキの記憶によれば「ラバウルからソロモンまで、2回は行ったけれど、3回目は戦争が激しくなって行かれなかった。」ということだから、コロンバンガラ輸送がもう1回あるのかも知れない。

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