コロンバンガラ島増援輸送


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 第1若松丸がコロンバンガラ輸送に従事したのは、1回か、多くて2回である。回数自体は、多くはない。しかし、当時の戦局の厳しさと、輸送の困難性を理解するために、コロンバンガラ島増援輸送について整理してみた。
 昭和18年2月7日、日本軍がガダルカナル島の撤退を終了し、その後、西進する連合軍はコロンバンガラ島を避け、周囲の諸島を占領していった。日本軍の守備隊は、当然の帰結として、コロンバンガラ島に終結していったが、周囲の諸島が占領された同島への補給は困難を極めることとなった。
 日本軍は、コロンバンガラ島守備部隊が、栄養不良、衛生環境劣悪などにより戦力が低下しているため、部隊の補充交代を行うこととし、昭和18年4月下旬から5月上旬の月暗期に駆逐艦輸送を行うこととしたのである。いわゆる、鼠輸送である。
 輸送物件は、進出部隊約180名、設営隊員約150名、交代陸兵約910名、兵員総数約1,240名、糧食、弾薬等大発約120隻分である。この駆逐艦輸送には、第15駆逐隊「親潮・黒潮・陽炎」、第24駆逐隊「海風」、第4駆逐隊「萩風」の5隻が従事することとなった。
 戦局の厳しさが増大したこの頃の危険海域への輸送は、萬やむを得ない限り、駆逐艦、潜水艦等の艦艇をもって実施することとし、これに任命された艦艇は、艦内装備を取り除き、一個でも多く物資が積み込めるよう、いわば、輸送専用艦に改装されていた。また敵側の目をかいくぐる手段として、現地到着時刻を日没後、離岸を日の出前、輸送期間を月暗期に合わせるなどの工夫がこらされていた。しかし、連合軍側は、全てを見抜いていた如く輸送妨害が行われたため、艦艇の輸送も損害が多く、揚陸の完全は期し得なかったようである。

・第1回輸送「親潮、黒潮、陽炎」
   4月28日午後8時00分ラバウル発。いったんブインに進出の上、4月29日午後11時30分コロンバンガラ(ガッカイ島)泊地着、糧食、大発16隻他舟艇を使用し、弾薬等大発24隻分を揚陸完了。後送患者287名、英霊58柱を搭載、30日午前1時00分離岸。午前6時00分ショートランドに帰港。

・第2回輸送「萩風、海風」
   4月29日午後9時00分ラバウル発。30日午後11時00分コロンバンガラ泊地着、揚陸やや手間取り萩風の積載糧食2トン未揚陸となる。後送海兵26名、陸軍228名を収容、携行大発を現地に引き渡し、5月1日午前1時00分離岸、午前5時00分ブインに帰港。

・第3回輸送「親潮、黒潮、陽炎」
   5月3日午前4時30分ブカ島ブカ発。午前11時30分ブイン入泊、陸兵350名、物件14トンを搭載し、午後3時30分発。午後10時50分コロンバンガラ泊地着、1時間で揚陸完了、午後11時50分離岸、4日午前5時05分帰港。

・第4回輸送「萩風、海風」
   5月4日午前3時30分ブカ発、午前10時54分ブイン入泊、ここで萩風は海兵と物件を、海風は陸兵110名と物件を搭載し午後5時00分発、午後10時49分コロンバンガラ泊地着、揚陸完了し5日午前3時30分離岸、午前5時15分ブイン寄港、午後1時55分ブカ帰港。

・第5回輸送「親潮、黒潮、陽炎」
   親潮と黒潮は、陸兵220名と物件18トンを、陽炎は海兵と物件をそれぞれ搭載して5月7日午後5時00分ブイン発、当日は風雨が強く視界が悪かったため、8日午前1時頃コロンバンガラ泊地に到着したが、入港遅れのため揚陸用の大発が来ず連絡に手間取り、午前3時10分終了離岸帰途に就いた。
   午前3時59分、親潮が船体後部に触雷し航行不能。
   午前4時11分、陽炎が船体後部に触雷し航行不能。
   午前5時06分、黒潮が触雷、艦内5ヶ所に爆発が起こり瞬時に沈没。
   午前9時19分、連合軍機19機が来襲、両艦共に弾薬全部を撃ち尽くして奮戦。
   午後5時55分、親潮が沈没。
   午後6時17分、陽炎が沈没。

 第5回輸送隊が触雷した機雷は、コロンバンガラ輸送隊が毎回往復とも同じ航路を執っていることを察知した連合軍が、5月6日午後10時05分から17分間で敷設した250個の機雷によるものと言われる。

 第15駆逐隊3艦の沈没によって、第6回コロンバンガラ輸送は取りやめとなり、同地向け輸送は5月下旬の月暗期から再開されることとなった。
 これまでの駆逐艦によるコロンバンガラ輸送(軍ではムンダ輸送と呼称)は、陸兵1,145名、海兵353名を揚陸、後送986名を輸送している。
 5月下旬再開されたコロンバンガラ駆逐艦輸送の概要は、次の通りである。

・第6回輸送「長月、水無月、皐月」
   5月28日午後4時00分 陸兵及び資材等を搭載し、コロンバンガラに向けブインを出港。4時間後に長月と皐月が座礁。29日午前4時00分離礁に成功、いったんブインに帰港。この事故により皐月は事後の作戦継続困難となり、修理のためラバウルに帰港。長月、水無月の2隻は、29日午後4時00分再びコロンバンガラに向け出港したが午後6時頃数回にわたり連合軍機の執拗な接触を受け、以後の強行を見合わせ、ブインを避けてブカに入泊。ブカで1日待機。31日午後3時00分ブカ港発。その後は異常なく午後11時30分コロンバンガラ泊地着。陸兵1,059名、物件100トン、燃料49缶を揚陸、6月1日完了と同時に後送者421名を搭載し離岸、同日中にブイン帰着。
   揚陸人員には、佐々木少将以下南東支隊司令部、歩兵229連隊本部等の人員が含まれる。

・第7回輸送「長月、水無月」
   6月2日 人員479名、物件約40トン、燃料60缶を揚陸。行動の資料無し。

・第8回輸送「望月、皐月、夕凪」
  6月26日ラバウルで3隻合計で人員約900名、物件約100トンを搭載。27日午前ブインに進出、同日 夕刻出港。午後11時00分コロンバンガラ入泊、揚陸完了。

・第9回輸送「長月、水無月、三日月」
   6月28日第8回と同様な人員・物件を搭載の上ラバウルを出港。いったんブインに進出、29日夕刻ブインを出港、コロンバンガラに向かうが、真夜中頃連合軍機の接触を受け、照明弾を投下され、爆撃を受けたため、入泊を断念引き返す。
 7月に入ってからも、コロンバンガラ向け駆逐艦輸送は続けられたが、連合軍の7月2日レンドバ島上陸を契機として、コロンバンガラ島周辺での海戦が激化、日本軍の戦力消耗も甚大であった。
・7月 6日 「新月」被弾、火災発生、間もなく沈没。
・7月 7日 「長月」座礁、空爆により炎上。
・7月13日 「神通」被弾沈没。
・7月20日 「夕暮」が被弾、船体切断し沈没。
       「清波」空爆により沈没。
・8月 6日 「江風」被雷、船体切断、轟沈。
       「萩風」「嵐」集中砲火により爆発沈没。
 8月23日から2週間で220トンの物資を急送したが、僅かに14トンが揚陸されたに過ぎない。
 かくして、中部ソロモン向け増援補給作戦は終わりを告げ、9月27日からのコロンバンガラ島大撤収作戦の展開となったのである。

 コロンバンガラ輸送は、駆逐艦輸送の外、海上トラックと呼ばれた海軍徴傭船によっても並行実施されていた。
 4月30日橿 丸(659トン)
 5月 6日橿 丸
 5月11日宇治川丸(786トン)
 5月15日如月丸(495トン)
 5月28日柏 丸(222トン)輸送終了、30日ブイン帰着。輸送物件不明。
 5月29日橿丸輸送終了、6月10日ブイン帰着。
 5月30日協成丸(557トン)午後3時00分ブイン発。ホラニウ経由で6月1日コロンバンガラ着、揚陸完了。輸送物件 人員12名、物件約160トン。
 6月 5日橿丸、人員約90名、物件約255トンを揚陸。
 6月 5日協成丸午後0時15分ブイン発。ホラニウまで第12号駆潜艇護衛。6月7日人員12名、物件約160トンを揚陸。
 6月11日第1若松丸(232トン)航空部隊を輸送。
 6月26日協成丸、人員約90名、物件約175トン揚陸。
 7月 2日橿丸、コロンバンガラ島バイロコ泊地において被雷沈没。船員1名戦死。
10月13日第1若松丸、ラバウル在港中空爆により沈没。船員6名戦死。
10月30日宇治川丸、ブーゲンビル島南東端モノラ岬西方3粁付近において被雷沈没。船員21名戦死。
<昭和19年>
 2月22日協成丸、ラバウル発本土向け航行中、午後7時30分頃ニューアイランド島ケビエン南西48粁付近にて敵艦と遭遇、船体前部に被弾沈没。船員5名戦死。

 海上トラックによるコロンバンガラ輸送は、駆潜艇等1隻及び九三八空水偵の護衛を受けてホラニウにいたり、以後暗夜に乗じて単独コロンバンガラに進出し、揚陸を終わってホラニウに帰港、同地から再び駆潜艇等の護衛のもとにブインに帰った。一部には、終始単独行動したものもあったという。
 これら海上トラックは、駆逐艦輸送に困難を感じる時期に搭載量も多く駆逐艦輸送を補って余りあるものがあり、低速且つ無防備で輸送に当たった船長以下乗員の勇敢さは、駆逐艦のそれに勝るとも劣らないと、高く評価されている。

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