八郎平戦死


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 昭和18年12月22日、日本軍の偵察機は、ニューギニアのフィンシュハーフェンに大発60隻を含む約80隻の船艇を発見した。又、他の偵察機はブナに駆逐艦8隻、海上トラック60隻を含む100隻余りの艦船が在泊中であることを報告してきた。日本軍の指揮官は、新たな敵の上陸進攻が行われるものと判断し、22日夜、今明日敵上陸等に対し厳戒するよう各部隊に打電した。しかし、23日、24日共に連合軍は格別の動きは見せなかった。
 25日午前6時50分、ケビエン航空基地は、急降下爆撃機、雷撃機、戦闘機、約100機の襲撃を受けた。これを受けて、南東方面部隊指揮官は、連合軍機動部隊がラバウル北東方面海域に在ると判断し、偵察を命じると共に、薄暮以降カビエン東方洋上の空母を攻撃すべしと命令した。大型空母1隻、小型空母1隻を基幹とする連合軍の部隊は発見されたが、薄暮攻撃は、艦種不詳の1艦撃沈の外は格別の戦果は無かったようである。
 ケビエンが空襲を受けた25日この朝、ブナの連合軍大船団は北上を開始していた。巡洋艦4隻、駆逐艦16隻、輸送船100〜150隻、戦車揚陸艇、その他上陸用舟艇の総計250隻が、上空には約20機の戦闘機の援護のもとでの北上である。日本軍の偵察機はこれを発見していたが、連合軍戦闘機の攻撃を回避しながらの偵察であり、しかも、我が機の位置判明を恐れて無線を発信せず、しかも、燃料欠乏により不時着し報告が遅れたのであった。
 北上中の大船団発見の知らせが第11航空艦隊に報告されたのは、25日夜になってからであった。第11航空艦隊は、報告の遅延を嘆きながらも、上陸地点が特定できないこともあり、同夜は、艦攻3機の出撃のみで、他の兵力は翌払暁攻撃に備えた。
 翌26日午前6時01分、ニューブリテン島ツルブ見張所は、「敵輸送船多数当地に向け前進中0455」と打電し、次いで「当基地北東約15粁に上陸開始0525、現在敵航空機猛爆中」、午前7時38分「電源後僅か、本夕、東方の敵攻撃を実施せんとす」と打電、午前8時30分以後通信が途絶している。
 第11航空艦隊は、午前5時20分、艦爆27機、戦闘56機がラバウルを発進し、マーカス岬付近の艦船を攻撃し、更に、12時35分、艦爆25機、戦闘55機でツルブ方面を攻撃した。この戦いで、第11航空艦隊は、戦闘機20機撃墜、巡洋艦、輸送船各2隻撃沈、輸送船3隻炎上(沈没確実)の戦果を挙げたが、17機未帰還、2機不時着大破の損害を被った。
 連合軍のツルブ上陸は、ラバウルの無力化と以後の進攻準備のための基地獲得にあった。25日払暁のケビエン空襲は、このツルブ上陸の支援が目的であり、ソロモン航空部隊がラバウルを、機動部隊(航空母艦を基幹とする部隊)がケビエンを、それぞれ空襲して、牽制若しくは間接支援を実施したものである。
 八郎平は、このケビエン空襲により戦死している。
 さきに第1若松丸が空爆により沈没しているので、代船をケビエンにて修理中だったものである。修理中の代船に乗船していたものは無事であった。小船で移動中の八郎平は雷撃か機銃掃射によって戦死したものであろう。
 ケビエン空襲による日本軍の被害は、沈没が輸送船1隻、掃海艇1隻。損傷が輸送船若干とされている。
 沈没船には、次の記録がある。
・天龍丸 4,861総トン 内外汽船 昭和18年12月25日、ニューアイルランド島ケビエン在港中、午前5時45分頃、120機の空襲をうけ、大型爆弾を被弾、午前8時5分沈没。船員2名戦死。
 この天龍丸こそ、八郎平が乗って帰ってくるはずであった船に違いない。
 ハルキの手許に次のような文書がある。

      遺 留 品 目 録
本 籍 地  愛媛県西宇和郡伊方村ノ内川永田
氏   名  阿 部 八 郎 平
所   属  ラボール運輸部 機帆船機関長(軍属判任嘱託)
    目       録
一、 印  鑑    壱 個
一、 財  布    壱 個
一、 金  銭    拾五円貳拾五銭也
                        以 上
   昭和19年1月22日
      作製者 天龍丸船長代理 園 田 信 義 印

 この文書から見ると、死亡時点の八郎平は、天龍丸の乗組員になっていたようにもとれる。そうすると、先述の船員2名戦死の記録は、その中に八郎平が含まれているのかも知れない。この目録が船長代理の名によって作成しているところから、船長も沈没時点で戦死しており、船員2名戦死の中に含まれているのかも知れない。
 この仮設は、残念ながら今のところ、肯定する資料にも、否定する資料にも巡り会えていない。

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