義父八郎平の航跡
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義父八郎平は、宇和島市に本社がある宇和島運輸の海技員として就職していた。
支那事変でも2回ばかり徴用されたが、太平洋戦争では、昭和17年12月、第一若松丸(232総トン)に機関長として乗り組のまま海軍に徴用され、横須賀艦船部により第十一航空艦隊司令部配属が命じられた。この配属先が、ニューギニアのニューブリテン島ラバウルなのである。
徴用された時は正に、ガダルカナル島撤退の時期に当たり、コロンバンガラ島輸送など、負け戦の困難な海上輸送に従事したようである。
昭和18年10月、第一若松丸は、ラバウル在港中空爆により沈没、船員6名が戦死する中、義父は九死に一生を得て、負傷はしたけれども戦死は免れた。
乗り組む船を失った義父は、退院後ケビエンに移り、帰国の代船と決まった天龍丸を修理中であったという。
昭和18年12月25日早朝、ケビエン基地は、連合軍機動部隊(航空母艦を基幹とする攻撃部隊)約百機の襲撃を受けた。この空襲の日本軍の被害は、沈没が輸送船一隻、掃海艇一隻。損傷が輸送船若干。とされている。
ケビエン港の沖合の島に係留され修理中の天龍丸は沈没。義父は、陸地と船の間を舟艇で移動中、空爆により戦死したのである。
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