今年のノーベル賞

〜 ますます身近になった 〜



今年のノーベル賞も経済学賞の発表で終了したが、なんと言ってもノーベル物理学賞を、青色LEDの発明に貢献した赤崎勇名城大学教授、天野浩名古屋大学教授、中村修二米カリフォルニア大学教授の日本人3氏が受賞した事で大騒ぎとなった。またまた自然科学分野の、しかも王道中の王道である物理学賞に日本人が選ばれた事は、まことに喜ばしい。

(石材店)「幹事長はかつて中村教授を批判してませんでしたっけ?」
(幹事長)「かつてお世話になっていた勤務先に対して200億円だなんてトンでもない巨額の発明報酬を吹っかけた傍若無人ぶりを大いに批判したな」


もちろん、今も見解は同じだ中村氏の発明はすごいものだっただろうけど、日亜化学工業が得た利益は、何も中村氏だけの貢献によるものではなく、他の多数の社員の努力の賜だ。それを中村氏は自分一人の単独の手柄のように主張して莫大な金をふんだくろうとした人間だ。トンでもない貪欲な勘違い人間だ。このため、私だけでなく、地元徳島を始め、経済界では中村氏に批判的な意見が主流だ。もちろん、マスコミは、こういう事は記事にしない。バカみたいに脳天気に「四国からノーベル賞受賞者が出た。目出度い、めでたい」って言いふらすだけだ。

中村氏の傍若無人な態度は、日亜化学工業に対してだけではない。今回、同時に受賞した赤崎教授らに対しても、ライバル視と言うより敵意としか思えないほど毛嫌いしていた。中村氏は赤崎教授らのことを「ボクの場合はすべて直感で勝負してきた。自分ひとりで未知の世界に飛び出し、自分一人で世界一の膜をつくり出した自負はある。大学の先生は論文だけで認められるが、企業の人間は研究成果が実際に製品となって世の中に出ないと意味がない」などと言っていたが、実際には中村氏が発明する15年も前から赤崎教授らが基礎研究で先行していた。赤崎教授は中村氏について「向こうが商品化にこぎつけたことは、あれはあれで立派だと思うが、すべて向こうがやったように言われるのは納得できない。後でやった人のLEDがより明るくなるのは当たり前で、本質的な部分を誰がやったかが重要な問題なのだ」と批判している。
この争いは赤崎教授と中村氏の個人の争いにとどまらず、赤崎教授の支援でLED開発を進めた豊田合成と中村氏がいた日亜化学工業の訴訟合戦にも発展した。

まあ、このように人間として問題の多い中村氏だが、人間として問題があるっていうのと、彼の発明が素晴らしいってことは別物だ

(幹事長)「人を憎んで業績を憎まずってところかな」
(石材店)「はあ」


もちろん、今回のノーベル物理学賞の受賞には、若干の違和感が無いこともない。去年のヒッグス氏に代表されるような理論物理の根本的な業績こそが、いかにもノーベル物理学賞に相応しいような気がする。日本人受賞者で言えば南部氏のような、理論物理の天才的な発見に対するものが代表的だ。その延長で言えば小柴氏の受賞なんかも相応しいと言える。
それに対して、今回の受賞理由は、物理学への理論的な貢献ではなく、あくまでも工業製品の開発に対するものだ。ノーベル物理学賞と言うよりノーベル工業技術賞みたいなものだ。ただ、これは物理学賞だから違和感があるだけで、例えば化学賞なんかだと、従来から似たようなレベルの受賞が続いている。2002年の田中氏を始め、2008年の下村氏、2010年の鈴木氏、根岸氏らの業績は、いずれも理論の構築ではなく、技術開発に対するものだ。化学賞は物理学賞に比べて産業に近いし、なんとなく業績も分かりやすい。一般人にとっての貢献度合いも大きい。
ただ、かつて物理学者を目指していた僕としては、個人的にはノーベル賞の中では物理学賞が一番偉大な気がする。自然科学の中でも、最も基礎的な本質を科学する学問だからだ。一般社会への短期的な直接的な貢献度合いは乏しいけど、本当に知りたい物の本質を明らかにするのは物理学だと思うからだ。

(幹事長)「本当は、ノーベル賞は物理学賞だけでいいんだけどな」
(石材店)「じゃあ2年前に医学生理学賞を受賞した山中先生はどうですか?」
(幹事長)「あれは無条件で素晴らしいです」


山中氏の業績も、技術的なものではあるが、あまりにも画期的な技術であり、また生物の根本に迫る理論と一体化した技術であり素晴らしすぎて賞賛の言葉も思いつかない。一般的に、ノーベル賞を受賞するのは業績を上げてから何十年も経ってからだが、山中氏の極めて早い受賞は、その業績が画期的だったことを証明している。
そういう意味の延長では、今回の物理学賞も、工業製品の開発に過ぎないと言っても、青色LEDの発明は世界中の人たちへの貢献度が非常に大きいものであり、ノーベル賞に相応しい業績と言えるだろう

また、複数人の受賞は、2002年の小柴氏(物理学賞)と田中氏(化学賞)、2008年の南部氏(物理学賞)と小林氏(物理学賞)と益川氏(物理学賞)と下村氏(化学賞)、2010年の鈴木氏(化学賞)と根岸氏(化学賞)に続くものであり、日本人にとってノーベル賞はだいぶ身近になったと言えよう。

僕らが子供の頃って、日本人のノーベル賞受賞者って湯川秀樹博士と朝永振一郎博士しかいなかった。中でも湯川秀樹博士は、日本の物理学会の天才というイメージであり、ノーベル賞なんてアインシュタインとか湯川秀樹博士のような天才でないと受賞できないイメージだった。事実、少なくとも日本では、ノーベル賞を受賞する確率は欧米に比べて非常に少なく、よっぽどすごい業績を上げた偉い学者でないと受賞はできなかった。
ただ、日本ではノーベル賞を受賞する確率が非常に少なかったから、ものすごく偉い天才的学者でないとノーベル賞は受賞できないと勘違いされてきたけど、欧米の状況を見れば、それは勘違いだと分かる。特にアメリカは受賞者が多い。アメリカは唯一、戦争の被害を被らなかった国として、ダントツの国力を維持し、多くの優れた学者を世界中からかき集め、圧倒的な優位性を築いたからだ。僕がアメリカに留学していた大学にも、ノーベル賞学者は何人もいたが、その大学に限らず、どこの大学にもノーベル賞学者はゴロゴロしていた。その頃、僕は、ノーベル賞学者っていうと、まずは湯川秀樹博士を思い浮かべていたので、そないにすごい人がゴロゴロしているっていうのが感覚的に理解できず、大きな違和感を抱いていた。しかし、それは勘違いであり、ちょっと優れた人なら、誰にでも可能性は転がっている、というのが本当なのだった。また、大学に限らず、企業の研究者がノーベル賞を受賞するのも珍しいことではない。そういう基準から言えば、今回のノーベル物理学賞の受賞も、違和感は無い。

かつて日本人の受賞者が少なかった理由は、極東のマイナーな国の学者の研究成果は、なかなか評価されにくい、というハンディに起因していた。言葉のハンディもあれば、人的な交流のハンディもあり、いくら優れた業績でも、世界の中心にはなかなか伝わらず、それを応用というか借用した欧米の学者が脚光を浴びてしまう。そもそもの原理は日本人が発見したのに、それを応用発展させた欧米学者が受賞するケースが多かった。或いは、圧倒的に日本人の業績の方が偉大なのに、似たような研究をした欧米学者との共同受賞などが多かった。それが最近は、ノーベル賞の選考委員会が公平でかつ綿密な調査をしてくれるようになったこともあり、日本人受賞者が増えてきたのだろう。
そんな事もあって、近年の日本人の受賞ラッシュを見ていると、努力と運次第で、天才でなくても秀才クラスでも受賞できるんだ、っていう光が見えてきた。
ノーベル賞が一気に身近になったのは、なんと言っても8年前の田中耕一島津製作所分析計測事業部ライフサイエンス研究所主任の化学賞受賞だ。あの時、同時受賞した東京大学の小柴名誉教授は、有名なカミオカンデの実験装置の責任者であり、また日本の物理学会の大御所でもあり、その筋では超有名で、10年以上も前から毎年ノーベル賞候補に挙がっていた。それに比べれば、田中耕一氏は全くの無名研究者であり、大学や学会とも縁が薄く、また、その業績も、なんとなく地味なイメージだった。ただ、逆に言えば、そういう普通の人でもノーベル賞を受賞できるって事で、ノーベル賞が一気に非常に身近になった事は確かだ。田中氏の業績に比べれば、今回の物理学賞の対象となった青色LEDは、人類に対する貢献が極めて大きいので、田中氏の時ほどは違和感は無い。

物理学賞を始め化学賞、医学生理学賞の自然科学分野のノーベル賞は大きな意味があるが、相変わらず他の3賞、すなわち文学賞、平和賞、経済学賞は混迷を続けている

まず、軽いところから斬るとすれば経済学賞だ。この賞の存在意義には、いつまで経っても納得できない経済学なんてものは社会を対象にしたものであり、科学とは言えない。自然科学に対して社会科学なんて言う言葉が使われるが、本質的に矛盾のある言葉だ。サミュエルソンのようなシンプルな数式やグラフを使った理論は美しくて面白いけど、現実とはかなり乖離してる。なぜなら、対象が科学的に分析できるような代物ではないからだ。ブラックショールズモデルのような理論も、ほとんど自然科学のようなもんだから鮮やかできれいだけど、それが通用するのはオプション取引などの限られた世界だけだ。現実の経済社会は、そんな理想的な動きはしない。
なので、大半のノーベル経済学賞受賞者の受賞理由の業績は、なんだかぱっとしない。分かり切った事とか、的はずれな事とか、自然科学のような真理の探究とはほど遠い。おまけに毎年、誰かにあげなければならないから、ますます贈る対象が乏しくなり、内容がショボくなる。早く止めたら良いのに。

(石材店)「自然科学を諦めて経済学に転向した幹事長なのに、経済学に否定的ですねえ」
(幹事長)「やっぱり、憧れは物理学だよなあ」


それから、同じように意義が無いのが文学賞だ。さすがに文学賞を科学だと言うアホはおらんと思うけど、それなら何を基準に選考すると言うのだろう。文学なんて100%完全に読者個人の好みであり、賞なんてバカバカしいぞ。

(石材店)「最近は毎年、村上春樹が有力候補に上がっているので話題になってますけどね」
(幹事長)「個人的には村上龍の方が、はるかに好きなんだけど」


て言うか、村上春樹の小説は、高松が舞台だったというだけの理由で「海辺のカフカ」を読んでみたが、あまりのつまらなさ、バカバカしさに腹が立ち、もう二度と村上春樹なんか読むまい、と固く誓った。ほんとに時間の無駄だった。

(幹事長)「村上春樹は村上龍のコインロッカー・ベイビーズを読んだことはあるのかっ!?」

大江健三郎も、受賞したときは四国の出身だったから喜ばしい気がしたけど、原子力反対などとトンチンカンな事を言い出してから、「なんだ、このおっさんも知能が低いのか」と呆れかえり、失望した。所詮、文学者なんて、その程度の知能レベルなんだ。

そもそも、僕も文学は大好きだけど、それはあくまでも娯楽であり、学問とは縁のないものだ。だから、たかが小説書きにノーベル賞はないだろうって思う。
もちろん有望な新人を発掘して世間に知らしめるという意味では、芥川賞や直木賞なんかの存在意義は大きいと思う。しかし、もう十分、世間に知られて売れている人気作家にノーベル文学賞をあげる意義はあるのだろうか。それに文学は言語と密接不可分だから、言語の異なる文学どうしを、一体どうやって比較できると言うのだろう。チャールズ・ブコウスキーなんか日本語訳も出ているけど、あのニュアンスがどこまで表現できているのか、とても疑問だ。

そして最後が平和賞だ。ノーベル平和賞については、これまでも散々、批判してきた。
毎年、毎年、呆れかえっているが、特に酷かったのは2000年の金大中韓国大統領の受賞だ。あまりの事にボーゼンとした。金泳三韓国元大統領が「ノーベル賞の価値も地に落ちたもんだ」と吐き捨てたが、まさにその通りだった。金大中の受賞がトンチンカンだったことは、その後、朝鮮半島の南北対立が深まることはあっても緩和することが無かった事実が如実に証明している。

それから2009年にオバマ大統領が受賞した時も、あまりの事にボーゼンとなった。オバマ大統領自体に対しては、大嫌いな民主党ではあっても、過去のしがらみが無い若い黒人のオバマには、どっちを向いてもどん詰まりの国際情勢を、とんでもない大胆さで一気に風穴を開けて前進させてくれる可能性があったので、何かしら期待はしていた。ただ、それはあくまでも可能性であって、何の実績も上げていなかった時点で授与した事に、極めて政治的な意図を感じた。そして、その後、結局、彼は中東地域を始めとして、世界のどの地域においても、平和に関する何の実績も上げられなかった

金大中やオバマに限らず、そもそもノーベル平和賞の歴史は、疑問と欺瞞の歴史だ。2007年のゴアの受賞もひどかった。豪邸に住んで資源を大浪費しながら環境問題を語る詐欺師に対して、なんでノーベル平和賞なんだ?大統領選挙に落ちたから環境問題に活路を見いだして良い格好しようとしているだけだ。
ほかにもゴルバチョフとかアラファトとか北アイルランドのテロリストとか、およそ平和とはほど遠い人たちが受賞してきた。選考しているのがノルウェー国会とは言え、あまりにも政治的な選考は、ノーベル賞の価値を貶める以外の何物でもない。
もともと、我々日本人にとっては、1974年に佐藤栄作が受賞したときに、ノーベル賞の中でノーベル平和賞だけは取るに足りないくだらん政治的産物っていうのが分かった。本当にあの時は全国民がびっくりした。佐藤栄作なんて、悪いことはしこたまやったろうけど、平和に貢献するような事は生まれてこのかた一切やったことがないような人だったから、受賞理由が理解できなかった。

とは言え、ノーベル平和賞も、まともな時もある。例えば、半世紀以上にわたって貧民の救済活動に携わった活動が認められたマザー・テレサなどは、誰もが賞賛する人だろう。彼女は、式典のレセプションを断って、その費用すら医薬品の購入に充てようとした。こういう人物にこそ、ノーベル平和賞がふさわしいだろう。

それなのに、なんと今年は、憲法9条にノーベル平和賞を受賞させようなんていうトンでもない動きが表面化して、びっくりしてひっくり返りそうになった。
現行の日本国憲法は、あくまでも敗戦国日本に戦勝国アメリカが押しつけたものであり、アメリカに都合の良いように作られている押しつけ憲法だ。簡単に言えば、日本が二度とアメリカに対して刃向かわないように、戦争する権利を放棄させた憲法だ。こなな押しつけ憲法にノーベル平和賞を授与するって事は、すなわち押しつけたアメリカに対して授与するってことになるが、それでアメリカは喜ぶだろうか。中国が虎視眈々と日本侵略の機を伺っているタイミングで、憲法9条にノーベル平和賞が授与されたりしたら、中国は一気に日本を攻めてくるだろう。そうなると日米安保条約の当事者であるアメリカも困るだろう。

結果としては、こななアホな日本国憲法にではなく、パキスタンのマララさんが受賞したので、まずは良かったと言える。あまりにも若くしての受賞に違和感を唱える人もいるが、過去の金大中やオバマやゴアやゴルバチョフやアラファトや北アイルランドのヒュームやサダトやベギンやラビンや佐藤栄作に比べれば、はるかにノーベル平和賞に相応しい

ところで、日本を侵略しようとして鵜の目鷹の目で狙っている中国は、恥ずかしながら、これまで自然科学分野でのノーベル賞受賞者はいない中国人もノーベル賞が欲しくてたまらないのだが、受賞者が出ない理由として「欧米国家が中国を敵視しているので、あえて賞を与えない」とか「ノーベル賞には西側諸国の価値観にもとづく」なんていう意見が多い。言語の問題や情報交流の問題から、欧米諸国の学者が有利でアジア諸国が不利なのは間違いないし、日本人のノーベル賞受賞者が欧米に比べて少なかった理由でもあるが、それにしても人口が13億人もいる中国から一人も出てないってのは、やはり社会的な問題があるからだろう
そして、中国人で受賞したことがあるのは文学賞と平和賞なのだ。しかも、文学賞はフランスに亡命した反体制派の作家に対するものだったし、平和賞は共産党の一党独裁体制の撤廃を求めて国家政権転覆煽動罪で服役中の活動家に対するものだった。欲しくて欲しくてたまらないノーベル賞なのに、よりにもよって反体制の人ばかりに授与されて、まったく面目丸つぶれだろうな。

それから、韓国人もノーベル賞が欲しくて欲しくてたまらないのだが、受賞者は上に書いた金大中だけだ。オリンピックの金メダルでは、最近は日本に圧倒的な差を付けている中国と韓国だが、知能レベルではまだまだ日本には追いついていない

(2014.10.15)



〜おしまい〜





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